ボウ・バーグダール軍曹の帰還:待っていたのはバッシング

ボウ・バーグダール軍曹の帰還:待っていたのはバッシング

5月31日、アフガニスタンで5年間にわたりタリバンの捕虜になっていた28歳の米兵ボウ・バーグダールが釈放された。グアンタナモ基地に拘置されてきたタリバンのメンバー5人との捕虜交換が成立したのだ。ひと昔前のアメリカなら国中が喜びにわきたち、レッドカーペットを敷いてバーグダールを出迎えていたに違いない。メディアは多少の脚色をしてでも、長い拘留に疲れ傷ついたアメリカの若者をヒーローとして描く物語作りに躍起になったはずだ。 

ところが、そうはいかなかった。口では「喜ばしいニュースです」と言いながら、ニュースキャスターたちの多くは、最初から腰が引けていた。右派でならすFOXニュースにいたっては、バッシングにすぐさま血道をあげ始めた。脱走者だという断言に始まり、タリバンに通じた裏切り者だという根拠のない説までがしたり顔で流された。オバマ大統領が捕虜交換のニュースを発表する時、ホワイトハウスに呼ばれて同席していたボウの父親ボブがはやしていた長いひげが、「父親もまたムスリム・シンパ」というきめつけに利用され、辛苦の5年間を過ごしてきた父親は、ボウ・バーグダールたたきの「笑える」材料としてもて遊ばれた。一方、連邦議会では、共和党の右派を筆頭に、祖国への裏切り者のために、「凶悪中の最凶悪」のタリバン幹部を5人もくれてやるオバマ憎しの声が高まった。

ボウ・バーグダールの釈放(タリバンが流した宣伝ビデオから)。

表面だけみているとバーグダール軍曹たたきは一見、兵士にしてはどこか変種のボウと、捕虜になった兵士の父親」の一般的イメージからみると「とても変」な父親、という「お茶の間の期待」を父子でダブルで裏切ったことが、ひとつ。さらにアフガン戦争というアメリカ史上最長でありながらもうほとんどの国民に忘れ去られた、あるいは思い起こすのが苦痛な戦争という悪い条件が重なりあって、気の毒な鬼っ子にされたことが原因であるかのように見える。だが、あまり語られない地道な報道を追っていくと、実はこのバッシング(少なくとも一部)が、2年前から準備されていた仕組まれたシナリオに乗って進行し、思惑通りの成果をあげたらしいことが明らかなってくる。

耳を貸されなかった物語

ボウ・バーグダールの人となりを色眼鏡を極力排し緻密な調査に基づいて描いた、これまでで最高の報道は、実は2年前に行われていた。ローリングストーン誌の2012年6月7日号に掲載された「アメリカ最後の戦争捕虜(America’s Last Prisoner of War)」というタイトルの記事で著者はマイケル・ヘイスティングスだった。ヘイスティングスと言えば、2010年のローリングストーン誌の曝露記事で米軍のアフガニスタン司令官だったスタンリー・マクリスタル将軍を解任に追い込んで名を成した切れ者調査ジャーナリストだったが、2013年6月にロサンゼルスで運転していた車が深夜、猛スピードでヤシの木に衝突・炎上し謎めいた死を遂げた。実をいうとバーグダールに関するこの記事もローリングストーン誌にとっては勇気ある掲載だったらしい。当時は、バーグダールがタリバンの捕虜になってからすでに3年近くたっていたが、軍内部では兵士や帰還兵にバーグダールの話を外部に広めないよう厳しい箝口令が敷かれ、メディアによる取材も明らかに歓迎されていなかったからである。

米軍に従軍した英ガーディアン紙のカメラマン、ショーン・スミスの写真にボウ・バーグダールが映っていた(写真右。兵舎の前でパイプをくわえている)

2009年6月30日、バーグダールが任地から忽然と姿を消した日のことをヘイスティングスは、次のように描いている。―早朝、アフガニスタン東部パクティカ地方の人里離れたある村近くに設営された米兵25人の小隊で見張りの任務を終えたボウ・バーグダールは、砂袋とベニア板でできた兵舎に引き上げた後、上官に質問しに行った。「基地を離れる時、精密機器をもって出たら問題になるだろうか?」「その通り」とチーム・リーダーは応えた、「ライフルと暗視ゴーグルをもって出れば問題になるだろう」。兵舎に戻ったボウは「水とナイフ、デジタルカメラと日記帳だけを手に、前哨基地からそっと抜け出した」。 

バーグダールが前哨基地のどこからどうやって外に抜け出したのか、その時、何を考えていたのか、どうやってタリバンの手に落ちたのかは、まだ何ひとつわかっていない。家族に送られた手紙やメールの抜粋がさまざまに公開され、そこに書かれた厭戦と自分が従軍している戦争の無意味さについての怒りや不満がメディアであげつらわれた。しかし、プライベートな書き物なのである。そこで何を言おうが、責任を問われる筋合いはない。繊細な神経をもつ若者が迷い、もがき苦しみ、勤務への嫌悪をぶちまけようが、それに対して父親が「良心の声に従うんだね」とアドバイスしようが、赤の他人が、とやかくいうのは筋違いだ。ましてや処罰の対象にするなんて、もってのほかだ。裁き得るのは、行為のみ。規則や法律への違反行為があったという疑いがあるのなら、具体的な違反行為を諸般の状況に鑑みて検証していけば良い。

バーグダールが失踪する前からタリバンとつるんでいたという根も葉もない憶測については、捕虜になった彼がおそらく拷問を受け、少なくとも2度、脱走を試みたが再び捕縛されたことが、その後、確認されている。

そもそも、ボウの厭戦気分は、彼に限られたものではない。この戦争を大喜びで支持しているアメリカ人なんてひと握りだ。2013年12月に米国でCNNが行った世論調査によると、回答者の82%がアフガ二スタンでの戦争に反対だと応え、支持すると応えたのは17%にすぎなかった。国民のほとんどが「しょーもない」と思っている戦争に日々、生命をすり減らさせられる若い兵士が「こんな戦争はいやだ」と感じたからと言って、つべこべ言う方がどうかしている。しかし、にわかに熱血愛国者と化したメディアの集中砲火に導かれ、国民感情の中でボウ・バーグダールはあっというまに「欠席裁判」のまま「いけすかない脱走者」として断罪されてしまった。 

武器を手にした平和部隊

確かにボウが残した言葉は強烈だった。両親に宛てて送ったメールにはこうあった。「ここで起きているすべてがひどい。現地の人たちは助けを必要としているのに、世界一の欺瞞国が彼らに向かって言いつのる。お前たちはまったくとるに足らず、どう生きたら良いかさえわかっていないおろか者だと・・・アメリカは、恐怖そのもの。おぞましい存在です」。 

アフガニスタンの村人という一見、自分とほとんど接点がなさそうな他人にここまで共感する力をもつ若者が、いったいなぜ、兵士に志願してしまったのだろう。その精神状況を思い浮かべるために、ヘイスティングスのレポートなどをもとにこの若者の軌跡をたどってみよう。

 ボウ・バーグダールは1986年にアイダホ州のヘイリーで生まれた。お金持ちに人気のスキー・リゾート地に近い、こよなく美しい自然に囲まれた小さな町だという。父親のボブも母親のジャニも土地者ではない。共に大学卒業後、カリフォルニアからやって来た。思うところがあったのだろう。町から遠く離れた場所に農地を買い、大自然の中での暮らしを始めた。小さなコテージで5000冊あまりの蔵書に囲まれた暮らしだと言う。かと言って世間を嫌い世捨て人になったわけではない。父親は長年、貨物運送会社のドライバーとして地元の人たちにとけこみ、信望もある。とはいうものの、両親はボウと姉のスカイを学校に入れず、自宅で教育を行った。アメリカでは特に珍しいものではない、ホームスクールという教育方式だ。アメリカではこれまた珍しくないことだが、ボウは5歳の時に父親からライフルの撃ち方と乗馬を習い、大自然の中で生きることに慣れ親しんだ。 

両親は惜しみなく愛を注いだが、思春期になったボウは親のコントロールから離れたいという思いに駆られるようになったらしい。フェンシングを習い、同じ建て物で行われていたバレーのレッスンに来ていたかわいい女の子が自分を軽々と持ち上げてくれる体力ある男性ダンサーを探していたことからバレーも習い、やがてその子の家にいりびたるようになった。 

バッシングが始まった頃、YOUTUBEに載っていた『くるみ割り人形』を踊るボウのビデオがメディアに発見された。Foxニュースは大喜びで精神分析家に解説させた。この識者の説がふるっている。まず、ホームスクールを受け、信心深いカルバン派の両親に育てられ、バレーダンサーだったことは「すくいがたいナルシスト」を意味するときめつけた。「スターになれないのなら、どんな仕事もしようとはしない。組織から距離を保ちたいという願望が強く、法の支配を軽んじ、個人を何よりも上に置く。そんな人物と交換にタリバンを5人もくれてやるなんて、大統領にはアメリカ魂が欠けている。愛国心がないんですね」。人種や民族的に多様なバックグラウンドをもち、住む地理的環境もさまざまな人たちで構成されているアメリカで、メインストリームとみなされる「アメリカ的」ライフスタイルから少々外れている、たったそれだけのことで「非国民」の烙印を押したのだ。そんな発想こそ、アメリカが売り物にしてきた個人の「自由」をまっこうから否定する「反アメリカ的」思想ではないのか。「国防問題」で国がわきたつ時、相手かまわず「愛国心」の証明を求めこのような迷惑な言いがかりをつける輩が幅をきかせるのは、アメリカに限ったことではない。 

ともあれ、ボウは地元のカフェでバリスタとしてしばらく働いたが、あふれる冒険心にいつも突き上げられていたようだ。傭兵、でなければ大自然の中でひとり生き続けるサバイバリストのような暮らしを夢みていたようだという友人もいる。フランスの外人部隊に憧れ、入隊を志願したが却下されたこともある。アメリカの沿岸警備隊にも志願したが、不適格としてはねられた。そんな時に、陸軍が新兵のリクルートにやってきた。入隊を決めたのは2008年、23歳の時だった。いろいろな武術を学んでいたので、「アフガニスタンの村人が暮らしを再建するのを助け、自衛の武術を教えたい」と思ったらしい。「武器を手にした平和部隊」にはいったつもりだったのだと父親は語っている。

アフガン戦争最悪の時 

ボウ・バーグダール陸軍軍曹と聞くと、それなりのキャリアを積んだ軍人に聞こえる。だが、ボウがアフガニスタンに到着したのは2009年3月、基地から姿を消したのは6月末、兵士として現地で勤務していたのはわずか4ヶ月弱にすぎない。捕虜になった時は、ほやほやの新兵でただの歩兵。そのまま5年がたったので自動的に2回昇進して軍曹という肩書きが付いたというだけのことだ。

それでも訓練中は射撃の腕と規律正しさ、オフで仲間の兵士たちがストリップを観に出かける間もひとり読書にいそしむ(読書内容は哲学も含め幅広かったが任務に役立ちそうな手引き書も読み、現地のことばも熱心に勉強した)勤勉さで、上官たちに期待されたらしい。

兵舎の中。座っているのがボウ。ガーディアンの載ったショーン・スミスの写真。

バーグダールの不運は、アフガニスタンでの戦争の中でもとりわけ厳しい時期に戦地に向かうことになったことだ。ボウが派兵された2009年3月は、前年11月の選挙で黒人初の大統領に選出されたバラク・オバマが1月に就任してまもない時期にあたった。

そもそもアフガニスタン紛争は、2001年の9・11同時多発テロ事件後、アフガニスタンで政権を握っていたタリバンがテロ事件の首謀者と指定されたアルカイーダの引き渡しを拒否したことから始まった。10月7日、アメリカと集団的自衛権を発動したNATOが攻撃を開始し、圧倒的な軍事力で2ヵ月ほどの短期間でタリバン政権を消滅させた。だが、ビンラディンの行方が知れないまま、アメリカは対テロ作戦をずるずると続けた。

2009年初め、アフガニスタンには米軍3万2800人がいたが、オバマは軍の縮小撤退には向かわず、大統領に就任間もない2月に3万5900人の増派を行った。増派はその後も繰り返され、翌年9月までにはアフガニスタンにいる米兵の数は10万人近くにまで達した。2年もたたないうちに3倍にふくれあがったのだ。特に増派の初期には、急ぎ募集された質の悪い兵士たちがずさんな指揮系統の下で危険な地に広く薄くばらまかれたようで2009年前半に、米兵の死者数は急騰した。また、5月4日には、米軍が後に誤爆と認めた空襲でアフガン市民100人前後が死亡する事件も起きた。被害者の大半が女性と子供だった。

戦友たちの話では、バーグダールは村人たちとの親交の機会を楽しんでいたという。だが、一方で杜撰な指揮で部隊の安全を危険にさらした上官が責任を問われないこと、上官の交代がしょっちゅうで統率が取れていないこと、道路脇に仕掛けられるIED(即時爆発装置)の危険に常につきまとわれること、戦士としての資質で劣る仲間の兵士たちへの不満などで、たちまちのうちに任務への疑問をつのらせていったようだ。バッシングに対抗し彼を弁護しようと私信を公開した親しい友人は、バーグダールがその頃、精神的安定を失っていたのではないかと指摘している。 

ちなみに、ボウの直接の知り合いではなかったが、ほとんど同じ頃、同じ地域に派遣され、後に現役の軍人の身でありながら良心的兵役拒否の申し立てを申請した帰還兵ブロック・マッキントッシュは、デモクラシー・ナウ!にゲスト出演し、アフガニスタンでの体験を次のように語った。「神経がすっかりまいってしまう体験がいくつもありました。爆弾を作っていた16歳の少年が爆弾に吹き飛ばされ、治療のために基地に運ばれてきたことがあります。僕らは1時間交代でこの子のベビーシッターをやらされました。部屋の中で僕とその子と2人だけになった時、なんてこったと思いました。20歳の僕と16歳の彼がひとつの部屋にこうしている。お互い、おとなたちの手で互いに殺し合うよう送りこまれた身だ。理解することさえできないイデオロギーのために。なんて悲しいことなんだと思いました」。 

ひげをはやしたお父さん

長くなって来たが、やはり触れておきたいのが今回の「騒動」にまきこまれたボウの父親ボブ・バーグダールの「使われよう」だ。ホワイトハウスでオバマ大統領が捕虜交換を行いボウを救出すると発表した時、テレビに映し出された映像を眺めながら、多くの視聴者の目が、長くもじゃもじゃしたボブのヒゲに激しく引きつけられただろうことは、まず間違いない。彼が着ていたなんの変哲もないホワイトシャツと激しく自己主張するかにみえるこのヒゲとのコンビネーションは、この人物について勝手に何かを語ってしまっていた。しかもボブは、感謝のコメントの中に、アラビア語を一言、入れた。これは「脱走者・裏切り者のボウ」の「イスラム主義者シンパの父親」というイメージを広めたい人々にとってなんとも嬉しい贈り物だったに違いない。

ホワイト・ハウスで捕虜交換の成功を発表するオバマ大統領とバーグダール夫妻。

英ガーディアン紙のカメラマンショーン・スミスは、5年前、アフガニスタンでボウがいた部隊をたまたま従軍取材していた。ボウがタリバンの捕虜となるほんの10日ほど前のことだった。スミスは、捕虜交換成立直前にアイダホに父親のボブを訪ねて独占インタビューにも成功していた。公開されたそのビデオの一部は、デモクラシー・ナウ!でも公開されたが、それを観るとバーグダール一家の暮らしぶりやボブの人となりがかいま見られる。 

ボウが捕虜になってから、ボブが目にできるその後の息子の姿は、タリバンが宣伝用に撮影した虜囚ボウが救出を訴える映像だけだ。スミスが撮ったビデオの中では、そんなボブがグアンタナモ米軍基地に拘置されている人々の釈放の運動に支援の声をあげている。また米国の軍事行動で殺害されたアフガニスタンの子供たちの死を悼む投稿をツイッターにも載せた。これがまた、ボウとボブのバーグダール父子バッシングの絶好の材料として喧伝された。グアンタナモの囚人たちも戦争捕虜。拘置された者の安否を日々、心配しその釈放を心待ちにする彼らの家族の思いもきっと自分たち家族と変わらないだろう。そんな共感が、ボブの行動の根っこにあった。また、息子が置かれている場所のことを少しでも知り、その言葉も学びたいと、パシュトー語も学び、アラビア語もかじった。誰にでもすんなり理解できる心理ではないだろうが、真摯な情熱家ボブの彼なりに筋の通った時間の使い方だったのだろう。だが、多くのメディアは、「ふつう」と違って見えるというだけの理由でボブを容赦なく笑いものにし、ヒゲを「敵性」の証だと言い立てた。

捕虜になったボウ・バーグダール(タリバンが公表した宣伝ビデオのひとつ)。

ボブ夫妻がすでに過ごしてきた苦難の5年間を思い合わせるとこの仕打ちの残酷さがより鮮明になる。突然の失踪を知らされてから、夫妻は朗報を待ち続けた。軍からはメディアとあまり接触するなという圧力がじわりとかかり、軍の機密情報のいくつかを知ることになるため機密守秘の書類に署名させられた。自宅の電話がすぐさま監視下に置かれたことも明らかだった。声もろくにあげられずただひたすら待つ月日が続くうち、事態はさらに悪化した。FOXニュースで「戦略アナリスト」と称されているあるアクション・スリラー作家がボウは「どうやら脱走者らしい」と口にしたうえ、こんな奴はタリバンに処刑させてしまうのが一番、そうすれば米国に連れ戻して裁判にかけるより安上がりだとのたもうた。この解説に怯えたボブ夫妻は、米軍にボウの救出作戦をけっして行ってくれるな、と申し入れた。軍による救出作戦が実現したら、はねっかえりの兵士、あるいは軍自身によって作戦中の事故で、あるいは事故に見せかけてボウの生命が失われるかもしれないと怖れたのだ。

捕虜交換の成立後、明らかになったことだが、タリバンは、米軍無人機による攻撃をかわすため、国境を超えパキスタンに拘置されていたボウをしょっちゅう移動させていたらしい。米軍の無人機攻撃を避けるためだ。無人機はボウを狙っていたわけではないが、米国は自らの手で自国の兵士を殺してしまう可能性に気付いていたらしい。そんなことにでもなれば、かなりまずい。オバマ政権が捕虜をできるだけ早くタリバンの手から取り戻したかった理由のひとつはこれだったと論じる人もいる。

タリバン5

なにはともあれ、テロリストとの交渉がいかん、という声もあがった。釈放の条件としてグアンタナモに収容されていたタリバンの指揮官5人との交換になったことが、物議をかもした。共和党でも右派茶会派のテッド・クルス上院議員は、物議をかもす派手な発言やパフォーマンスを売りにしている。クルスは、「この5人を捕らえるために何人のアメリカ人の血が流されたかわかっているのか」とオバマをなじった。だが、デモクラシー・ナウ!にゲスト出演した退役空軍大佐で、2007年までグアンタナモ米軍基地の主任軍事検察官だったモリス・デイビスは、この5人はアフガニスタン政府などから身柄を引き渡されており捕獲するためにアメリカ兵の血は一滴も流されていないと断言した。また、5人は釈放後、家族を呼び寄せて一緒に暮らせるが、1年間は交渉の仲介国の役を果たしたカタールを出られず監視の下に置かれることをアメリカ側は釈放の条件とした。1年たてばアフガニスタンに戻れるが、その後についてオバマは「(彼らが帰国後)タリバンに戻る可能性がないとはいえないが、アメリカにとって大きな脅威になるとは見ていない」と述べている。デイビス元検察官も「この連中は収監後、12年もたっている。もし米国が起訴できるようなことをやっていればとっくに起訴されていたに違いない」とする。

捕虜交換されたタリバンの5人

オバマは手続上の問題でも、突き上げを食った。グアンタナモから拘置者を釈放したい場合には、政権は30日前までに議会に報告すべしという法があるからだ。だが、オバマはこの法に書名した時、軍の最高司令官として大統領権を執行せざるを得ない場合は例外とするという意見書を添えていた。今回30日前に議会にはかったりしたら、共和党が多数を占める下院が大反対したことはまず、間違いない。捕虜交換の交渉がリークされたり、米国が交渉を蹴ればバーグダールの身の危険が限りなく増した可能性がある。 

また、どんな戦争も交渉無しには終わらない。アメリカはアフガニスタンでの戦争を終焉させる方向に向かっていた(オバマは5月27日、アフガン国軍の訓練などのため2016年までアフガニスタンに1万人弱の兵を残すと発表したが、2014年末に米軍の主力戦力は撤退する)。国は兵士の命を預かっている。異国に捕虜を残したまま、軍が本国に引き揚げることは敗戦でない限り、本来、あるまじきことのはずだ。また、米兵1人に対しタリバン5人は高すぎると論じる人は、5年前、タリバンがバーグダール釈放に対して求めた代償が米軍に捕われたアフガン戦士21人と身代金100万ドルだったことを知っておくと良いかもしれない。

グアンタナモの収容所閉鎖と囚人の釈放は、オバマによって何度か口にされながら議会などの反対によって実現されずにきた懸案だ。オバマはうまい釈放の機会をつかんだとも言える。グアンタナモ収容所について詳しいアンディ・ワージントンによると、タリバン5は米国の侵攻前にアフガニスタン市民の殺害に関わったが、米軍を襲った過去はない。グアンタナモにはいまなお149 人が収容されているが、そのうち78人は釈放が許可されているのに実現していない。71人は訴追され、裁判中かこれから裁判にかけられることになっている。先が見えないのが残りの61人だと、ワージントンはある記事の中で書いている。この61人は、本来、タリバンのメンバーなのだが、オサマ・ビン・ラディンが時折りやって来て演説するキャンプで訓練を受けた。

だが、タリバンは2001年にアメリカが侵攻した時には政権を握っていた。ならば彼らは本来、戦争捕虜であり、ジュネーブ協定に基づいて裁かれるべきだ。ブッシュ政権はジュネーブ協定を守りたくないために「敵性戦闘員」ということばをでっちあげて、拘置された人々の人権を一切、無視した。オバマ政権は国際的な非難を浴びたこの言葉をさすがに使わなくなった。だが、なぜその言葉を使わないことにしたかはっきりさせず、ごまかしている。タリバンが自国民に対して行った犯罪をアメリカがそれほど気にするのなら、彼らを国際司法裁判所に訴追すれば良いのだし、アメリカに対して戦争犯罪を行ったと言うのなら、国内できちんと訴追して裁くべきだ。それもせずに「今後、脅威になるかもしれない(ならないかもしれない)」と言って釈放の道を閉ざす(一生、捕まえておくのだろうか?)のは、筋が通らない。ボウの父親ボブが「ニュールンベルグのような裁判をきちんと開いて裁くべきだ」と語ったのは、まったくの正論なのである。 

仕組まれたシナリオ

実を言うとオバマ政権がボウ・バーグダールの捕虜交換交渉で動いたのは、今回が初めてではなかった。ヘイスティングスの記事によると、2012年1月にオバマ政権と少数の上院議員たちとの間で今回の取引条件とまったく似た内容で緊急の話し合いがもたれた。席上、共和党のマケインと民主党のケリーという共にベトナム戦争で捕虜になった経験を持つ上院議員(当時)ふたりの間で火花がとびかった。怒りにかられたマケインはタリバン5のことを「世界史上最悪の5人の殺人者」と呼んだと言う。「史上最悪の殺人者?」と首をかしげるケリーにマケインは「奴らはアメリカ人を殺したんだぞ!」と叫んだが、最後には捕虜交換をしぶしぶ認めた。ほかに捕虜交換反対にまわった人にジョージア州選出の共和党上院議員、サクスビー・チャンブリスがいた。チャンブリスは、ベトナム戦争で両脚と腕を1本失った民主党現職議員マックス・クリーランドに対して汚い中傷キャンペーンを展開して当選を勝ち取った議員だ。その彼が、「脱走者のために取引はできない」と主張して足を引っ張った。さらにオバマ政権内でも意見が割れ、パネッタ国防長官とヒラリー・クリントン国務長官といういずれも決定に署名を必要とする任についている二人が、反対を表明した。対ゲリラ活動を続ければアメリカはそのうち勝利する、いま無理して捕虜を取り戻さなくても良いという意見だった。難航の末、内部の意見がやっとまとまり、発表直前になった時に、タリバンが交渉を取り下げたため、すべてはご破算になった。ボウの父親ボブが、ひげを生やし、YOUTUBEに「私が直接、タリバンと話をつける。自分の手で息子を連れ帰る」というビデオを流したのは、政府によるこの交渉失敗を知った後のことだと言う。

生還を待ちわびるバーグダール家。ショーン・スミスのビデオより。

この時は流れたものの、共和党は次の選挙年にあたる2014年に民主党のオバマ政権が再び、捕虜交換の話を持ち出すに違いないと踏んだ。今回、捕虜交換成立のニュースが発表されてまもなく、テレビや新聞には、「脱走した」ボウの救出作戦のために米兵6人が生命を落としたとするボウの元同僚兵士の証言が流れた。多くのメディアがこの証言をそのまま採り上げてボウへの反感をかきたてたのに対し、ニューヨークタイムズ紙は証言を点検し、亡くなった兵士が参加していた作戦は、ボウ救出作戦ではなかったと報じた。ニュースウェブサイト「buzzfeed」は、この元同僚兵士の証言を仕掛けた人物をすっぱぬいた。ソーシャルメディアからこの兵士の投稿を見つけ出し、彼をリクルートして各メディアへの取材アポをアレンジしたのは元ブッシュ政権で仕事し、ミット・ロムニーの大統領選にも関わった共和党員だった。共和党にとってはボウ・バーグダールの帰還を11月の中間選挙前にオバマの栄えある手柄にするわけにはいかないのだ。 

ボウ・バーグダールはアフガニスタンからドイツの米軍病院に運ばれ手当を受けた後、6月14日、米国に戻ってきた。5年前、基地を離れた事情を追及する軍の調査がこれから始まる。生還を待ち焦がれてきた家族とは、まだ会っていない。(大竹秀子)

To the memory of Michael Hastings. 

参考記事:マイケル・ヘイスティングス 33歳で死去: 

権力に立ち向かいアフガン戦争の虚構を暴いた 恐れ知らずのジャーナリスト(2013.06.19)

 

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参考読み物(英文)

“America’s Last Prisoner of War” by Michael Hasgings (Rolling Stone)

 

 

 

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