BLACK LIVES MATTER―ファーガソンで企業メディアが見逃した大切なこと

BLACK LIVES MATTER―ファーガソンで企業メディアが見逃した大切なこと

2014年夏の盛りにミシガン州セントルイス郡の小さな町で起きた事件が全米をゆるがすことになりました。ファーガソンで起きた18歳のマイケル・ブラウン射殺事件です。白人警官との路上での遭遇からわずか90秒後に武器をもたない黒人少年が射殺されたのです。警官による射殺自体は、よくある出来事にすぎません。2014年には12月後半までに全米で少なくとも32人が亡くなったとされます。マイケル・ブラウンの事件も遺族にゆきどころのない怒りを残したまま、忘れ去られて不思議はなかったのです。

ところが、ファーガソンでは何かが違いました。マスコミは11月に起きた暴動にばかりフォーカスしましたが、実はもっと大きなことがおきていたのです。夏に起きた射殺から大陪審で警官不起訴の裁決が出た秋の終わりまでの108日間、催涙ガスやゴム弾を撃ち込まれても、外出禁止令や逮捕の威圧にもめげず、地元住民たちはくる日もくる日も街頭に出てストリートから抗議の声をあげ続けました。ヒップホップで「抵抗」を学びネットというツールを手にした世代が動いたのです。派手な「事件」ばかり追う企業メディアは見落としたけれど、現場に共にたち人々の声に耳を傾ける独立メディアやアクティビスト・ジャーナリストはわきおこったパワフルな運動のうねりをめざとく捉らえました。以下は、そんな視点からみたファーガソンの記録です。

手をあげたのに

2014年8月9日正午近くのひとときに、ファーガソンの路上で何が起きたのか、いまとなっては誰にもわからない。被害者はその場で死亡し、加害者のことばが一人歩きしている。目撃証言は入り乱れ、まっこうからくい違う。解剖所見からは複数の解釈が可能だ。間違いなくいえることは、武器を持っていなかった大柄な黒人の若者が警官から6回にわたる射撃を受け、頭のてっぺんから貫通した傷が致命傷になって死亡したということだ。

事件が起きた時、マイケル・ブラウンと一緒にいたドリアン・ジョンソンの話は、こうだ。「ふたりで道路の真ん中を歩いていただけなんだ。パトカーが近づいてきて警官に歩道を歩けと言われた。パトカーは一度立ち去ったがすぐ戻ってきてひかれそうなほど近づいて停まった。ドアを開こうとする警官とドアの真ん前にいたマイケルがドアごしにもみあいになった。警官は窓から腕をのばしてマイケルの首をしめようとした。逃れようとすると警官が銃をぬいた。僕らはちりぢりに逃げた。銃撃が聞こえ、マイケルが血を流すのが見えた。警官はパトカーから出てマイケルを追った。警官がまた発砲した。マイケルは停まって向きを変え、両手をあげてうずくまったが、警官は銃撃をやめようとしなかった」。セントルイス郡警察は、警官の名を公表せず、ブラウンが警官に襲いかかり、パトカーの中の銃に手を伸ばそうとしたことが射撃の原因だったと発表した。

4時間以上も路上にさらされたマイケル・ブラウンの遺体の写真は、ソーシャルメディアですぐさまひろまった。両手をあげたジェスチャーと ‶Hands Up. Don’t shoot″(「手はあげた。撃つなよな」)ということばが、警察の暴力行為への怒りと抗議のシンボルとしてファーガソンから世界に発信されていくことになる。

ファーガソンという町

ファーガソンは、人口2万人あまりの小さな市だ。マイケル・ブラウン射殺事件後、市が構造的に抱える人種間の緊張関係が話題になった。人口の7割近くが黒人。だが、市会議員6人のうち5人は白人、警官も53人中50人が白人と、市の実権を握るのは白人層だ。興味深いのは、人口構成の劇的な変化だ。1980年頃まではなんと人口の8割5分までが白人だったのだ。大都市周辺では、ジェントリフィケーションで市内に住めなくなった貧困層が郊外に押し出され、新たなゲットー(hood)が形成されている。

全米の100の大都市圏を対象にしたブルッキングス研究所の調査によると、そんな風にして2000年代にほとんどすべての大都市周辺の小都市で貧困化が進んだ。だが、市政や警察、教育など立法・行政・司法の実権を握る人々は、この変化に追いついていない。予算が足りないから、教育も保健衛生もおろそかになり、職の創出など望むべくもない。だが、地域社会の格差で優位の側に立つ彼等は、政治的に発言力のない貧困層の切実な問題への理解に欠ける。数で多数派を占める黒人の貧困層に治安をあずかる警察当局は潜在的な脅威を感じ、行政は彼等を経済的・社会的な「お荷物」として扱いがちだ。

しかもファーガソン市は、そんな貧困層をくいものにしてきた。セントルイス近辺の郡は歳入の大部分を交通違反や軽い違法行為などへの罰金から得ている。ファーガソンでは、罰金とその手続の手数料は市にとって2番目に大きな財源にあたる。2013年にファーガソンで出された逮捕状の数は、3万2975通にのぼる。人口2万1235人の町だ。ならすと、1世帯につき逮捕状3通が出された計算になる。

市は貧困地区と再開発されおしゃれな店が並ぶエリアにはっきりと分割され、お金のある住民は貧困地区には足を踏み入れない。取締で重点的に標的にされるのは貧困地区の黒人層だ。ファーガソンの警察と黒人住民との間には、射殺事件前から緊張感が生まれていた。

歴史を振り返ると、セントルイスは南北戦争の引き金のひとつとなった裁判が起きた場所でもある。ドレッド・スコット事件だ。当時、米国が奴隷州と奴隷所有を非合法とする自由州とにわかれていた。ミズーリ州は南北戦争では、南部に加担したい人たちと北部に加担したい人たちが対立した境界州になった。

バージニア州生まれの奴隷ドレッド・スコットは所有者の移転でミズーリ州にやってきて、陸軍軍医に転売された。軍医が亡くなった時、スコットはお金を出して自分の自由を買おうとしたが、軍医の未亡人が拒否したため、セントルイス裁判所で訴訟を起こした。軍医が生前、奴隷を禁止する自由州のイリノイで勤務したため、同行して自由州で数年間、居住した。これにより、自分はすでに自由人の地位を得たと主張したのだ。裁判は最高裁にまでもちこまれた。だが、セントルイスでの提訴から10年かかって出た1857年の判決で最高裁は、スコットの訴えを却下した。「アフリカ人の子孫は、奴隷であろうとなかろうと、憲法上、アメリカ市民とは認められない。そのため、米国連邦議会には奴隷制を禁じる法を作る権限はない」としたのだ。判決文には、黒人は「種として劣っており、総体として社会的にも政治的にも白人と一緒にすることは不適切である。白人が尊重されるのと同じような権利を認めることはできない」と書かれている。訴訟期間中、スコットを遊び友達として育った最初の所有者の息子たちが裁判費用を支援し、敗訴後にはスコットとその妻を購入して解放した。それから9ヵ月後、スコットは世を去った。ドレッド・スコットは、11月のファーガソンでの暴動で最大の被害地となったウェストフロリサントの墓地に眠っている。

軍事化した警察

「はじめはキャンドル・ビジルのつもりだった」―後にその晩のことを思い出して大勢の人たちがそう語った。夏の暑い陽射しにさらされ放置された遺体を自分の目であるいはテレビやソーシャルメディアで目にした地域の人たちは、翌10日、日曜の夕方、死者への追悼のために集まってきた。だが、人々を迎えたのは、吠えたてる警察犬を連れ、暴動鎮圧態勢をとって威嚇する高圧的な警察だった。

11日、警官の名の公表と処罰を求め抗議する人たちに警察は催涙弾や発煙弾、スタングレネード(特殊閃光音響手榴弾。目を眩ませる閃光と耳をつんざく音で一時的に相手の視覚と聴覚を 麻痺させる)の発射で応酬した。重武装した警官の写真がニュース報道を通して全米に広まり、警察の「過剰武装」が問題にされた。

ファーガソン警察の対応は終始一貫、住民の信頼を損ねるものだった。事件から1週間たってようやく射殺した警官の名を公表したものの、同時に、ブラウンが事件の直前にコンビニで50ドル相当のたばこ(シガリロ)を万引きしているビデオも公開した。「だからさ、殺されたって仕方ないだろう」と言わんばかりのこの対応は、人々の怒りに火を注いだ。加害者である警官ダレン・ウィルソンを裁くより、被害者の落ち度を問う当局の姿勢は検察官を通して大陪審にも受け継がれていく。

ところで、米国で警察の軍事化がここまで進んだのは、連邦政府の後押しがあってこそだ。1990年代に麻薬関連での暴力的な事件など凶悪な犯罪が増加すると、国防総省は軍の余剰武器を無料で警察に供与する「1033プログラム」をスタートさせた。現在までにこのプログラムを通して各地の警察に総額は50億ドルを超える軍装備が警察の手にわたっている。

警察への武器供与には、国土安全保障省も一枚かんでいる。こちらは9・11以降、反テロ対策として州に軍事装備購入に向けた助成金を与えるようになった。ファーガソンでパトロールにあたった装甲車の購入代金36万ドルや、大半のボディアーマー(胴体保護具)の購入費もこの助成金でまかなわれたという。

しかし、こうやって軍隊なみの装備を手に入れて、さていったい、いつ使うのか。テロ事件など、そうそう起きるものではない。たとえば装甲車は、SWATチームの送迎に使われ、ごくふつうの家宅捜査令状の執行に軍隊なみの装備で出動するのだ。あるいは、今回のように市民の抗議にも駆り出される。テロから市民の安全を守るために導入されたはずの装備が、ストリートにたち合法的な意思表示をする市民に向けられ、市民を威嚇する。いい目を見るのは、売上を伸ばす軍装備製造会社だけだ。

ファーガソン・オクトーバー:新しい運動が生まれた!

警官ダレン・ウィルソンは逮捕されず、有給のまま休職となり、起訴するかいなかの決定は大陪審の審理にゆだねられた。だが、警察改革とウィルソンの逮捕を求める声は勢いをゆるめなかった。

10月になると、正義の裁きを求め、若いアクティビストたちは全国的な結集を訴えた。4日間にわたる「ファーガソン・オクトーバー」だ。デモと市民的不服従行動を呼びかけるこのイベントには、NAACP(黒人地位向上協会)の代表やコーネル・ウェスト、はじめ黒人コミュニティの定番の指導者たちも各地からやってきた。ラッパーのレベル・ディアスが制作したドキュメンタリーThe Mike Brown Rebellion (『マイク・ブラウンの叛乱』)には、この時の記録もおさめられている。

中でこんなシーンがある。講堂のような場所。黒人指導者たちが演説している。会場から不満の声があがる。「そんな受け身で、いいのかい」「ストリートでは、毎日のように命が奪われてるんだぜ」。確かに、マイケル・ブラウン事件後も、警察の手で殺される黒人は、後を絶たなかった。中でもニューヨークの路上尋問で警官に首をおさえられ「息ができない(I can’t breathe.)」と訴えながら亡くなったエリック・ガーナーの事件は、後にニューヨークでの運動の起爆剤となった。「60年代と同じやり方でいいのか?」。

やがて、観客席から提案の声があがる。「若い連中にも発言の機会を与えましょうよ」。この声の先頭にたったのは、アクティビストのローザ・クレメンテだ。かつて緑の党の副大統領候補にもなった人で「ヒップホップ・コーカス」の元代表でもある。「ヒップホップ・コーカス」は、ヒップホップカルチャーを使って若い世代に政治的アクティビズムを育てることを目的にした団体だ。

会場からの声が聞き遂げられ、地元で一から運動を作ってきた若いアクティビストたちが、次次にステージにのぼる。会場は拍手と「これが民主主義だよね(This is what democracy looks like)」という歓呼の声に沸き立つ。

感動のシーン。反レイシズムの新しい運動はストリートのアクティビストたちに支えられていることが明らかにされた一瞬だ。

この時の映像で、10歳のアクティビスト少女、タンディーウィー・アブダラー(Thandiwe Abdullah)のスピーチがすごい。この子は、9歳の時にもトレイボン・マーティンの追悼集会で観衆を鳥肌たたせた。ファーガソン・オクトーバーでも、こけにされた「年寄り」のリーダーたちをたてながらも、人を人とする感情・心が大事なのだと訴え、「誰のストリート?みんなのストリート(Who’s street? Our street.)という会場との掛け合いでスピーチを締めくくり、ストリートのパワーと連帯が肝だと確認するという離れ技を一瞬のうちにやってのけている。末恐ろしい子だ。

「ファーガソン・オクトーバー」を経て、ファーガソンは「警察の暴力行為と人種偏見」の闘いのグラウンド・ゼロとして鍛えられていく。

抵抗のリーダーたち

デモクラシー・ナウ!は事件発生後まもなく、ファーガソンでの動きを「警察の抑圧に対する市民運動の歴史的転機」として捉え、地元アクティビストたちの声を追った。「ファーガソン・オクトーバー」の直前には、地元リーダー3人を番組のゲストに招き、話を聞いた。

アシュリー・イエーツは、詩人でアーティスト。ミレニアル・アクティビスト連合(Millennial Activists United)の共同創設者だ。運動が芽生えたいきさつをこんな風に語る。「事件の現場に集まってきた人たちは、最初はただ呆然としていた。皆、腹を立てていたけれど、警官の手で黒人が殺されるのは、しょっちゅうだから、ただもううんざりという感じだった。でもやがて人々の間で『どうしたらこんな事件が二度と起こらないようにできるのか、』という話し合いが生まれた。声を形にするために、団体を作り対策を考え始めた。市民による審査委員会を作り、地域社会で警察を監視しよう、私たちをあなどってこんな悲劇を招いた責任者の辞任を求めようということになった」。イエーツたちは、ファーガソン市長、警察署長の辞任を要求した。さらに、大陪審を公正なものにするため、特別検察官を任命するよう州知事に要求した。イエーツは、12月初めになると、ホワイトハウスに招かれ、警察改革案を検討中のオバマ大統領と会見し、ストリートからの改革要求案を提言した。

トリー・ラッセルは、事件が起きた時、自宅のテレビでリトルリーグ野球のワールドシリーズを観戦していた。ゲームの展開をツイートしていたら、タイムラインに突然、路上に横たわったマイケル・ブラウンの遺体の写真が現れた。誘いにきた友人と一緒にまだ遺体が置かれたままの現場に出かけた。「もともとアクティビストなんて柄じゃない」というけれど、数時間後には、近所の牧師を交渉人にたて、逮捕の恐れもかえりみず、警察署におしかけて事情説明を求めていた。ハンズ・アップ・ユナイテッド(Hands Up United)というグループで活動するラッセルはファーガソン・オクトーバーへの思いをこう語っている。「よそから来てこのイベントに参加する人たちには、それぞれの地元でストリートのオーガナイザーになってほしい。カウチにすわってツイッターしてるだけだった僕が60数日後のいま、かけまわって抗議している。誰でもそうなれるんだ」

ラッパーのテフ・ポーはいまでは、ファーガソンの抵抗運動の顔だ。「ある晩、ウェストフロリッサントを歩いていた僕らは州兵に囲まれた。武器をもたない市民とジャーナリストにM16で狙いをつけてきた。その瞬間、僕は悟った。ここで死んだって不思議はないんだって。」「警察機構やレイシストの団体に向かって言いたいのは、僕らは恐れていないってことだ。僕らがこれまでカウチから立ち上がらなかったのは恐かったからだ。でも僕は警官にこういった。『きみが僕にできることは2つしかない。殺すか、ぶた箱にほうりこむか、だ』。このふたつのどちらも恐くなくなったら、まったく新しい世界が開ける」

ファーガソン・オクトーバーのイベントで、テフ・ポーは、こんな演説をした。「運動のシンボルになった、『ハンズアップ(Hands Up)』のジェスチャをやり玉に挙げて、『なぜ、手をあげる?降参のしるしじゃないか』という連中がいる。それは違う。家にいて何もしないことこそ、降参だ。僕は最前線に立っている。事件が起きた時、僕らにはなんの取り柄もなかった。どうしたらよいのか、まったくわからなかった。わかっていたのは、何かしなくちゃいけないってことだけだった」

テフ・ポーは、10月後半にはマイケル・ブラウンの家族と共にジュネーブに旅し、国連人権委員会でファーガソンでの警察の暴力について演説を行った。ラッパーとしてもミズーリ州知事を激しく批判する曲War Cryを発表し、注目されている。

 まやかしの大陪審

感謝祭の祝日を目前にした11月24日、3ヵ月にわたる審理を経てミズーリ州の大陪審は、白人警官ダレン・ウィルソンの起訴を見送る決定をくだした。セントルイス郡検察のロバート・マカロックは異例の長時間記者会見を開いてこの決定にいたった過程を説明したが、審理の公正さに対する人々の不信は根強かった。

“You could indict a ham sandwich.(やろうと思えば、ハムサンドだって起訴できる)”という英語の表現がある。大陪審にとって、起訴の決定は、ことほどかように簡単だという意味だ。実際、米国の連邦大陪審は、2010年に16万件を扱ったが、そのうち不起訴に終わったのはわずか11件だった。

「憲法上の権利センター」代表のヴィンセント・ウォーレンはデモクラシー・ナウ!の番組で、大陪審を担当した検察官マカロックの采配がいかに異例で常道から外れていたか、批判を述べた。「検察の仕事は、起訴を勝ち取ることだ。だが、マカロックはガイドラインも示さずに、『証拠』をただずらりと並べて、陪審員たちに『さあ、お好きに決めなさい』と言っただけだ」。被告であるダレン・ウィルソンに大陪審で証言させたことも異例だった。本来なら、裁判でやるべきことだからだ。ウィルソンの証言がひとり歩きする中、反論できないマイケル・ブラウンが現場で何をしたか、被害者が裁かれる審理になったのだ。

事件当日、ウィルソンは現場で同僚の警官から事情を尋ねられたが、応答は記録されなかった。また、自分でパトカーを運転して事件の現場から警察に戻った。証拠や証言をいじったり変えたりする機会がたっぷりあった。大陪審の決定後、ウィルソンの証言や事件直後の写真が公開された。ウィルソンは、パトカーのドア越しのもみあいについて、「超人的な力をもつ巨人にいたぶられる5歳の子供になった気がした」「殴られて死ぬかと思った」と証言したが、事件直後に撮影された顔写真には、ほんのり赤くなった頬が写っているだけだ。

マカロックを大陪審から外せという声は市民の間で早くから聞かれた。警察ファミリーの出で、警官だった父親が黒人に殺されたという事情もあった。それでなくても、検事と警察の関係は近い。検事が警察に肩入れしがちなので、職務中の警官による殺人の起訴はきわめて難しいのが通例だ。アクティビストたちは、地元警察とつながりのない特別検察官の任命を州知事に要求したが、受け入れられなかった。マカロックが大陪審の決定発表を夜、行ったことも、暴動をおこしやすくする要因になったと批判された。

大陪審の陪審員は、審理について公言することを法律で禁止されている。だが、1月になるとダレン・ウィルソン不起訴の決定に関わった陪審員の一人が、公言する権利を求めて訴訟を起こした。この人は大陪審のやり方がいかに不適切で正当性を欠いたか、公の場で発言したいと主張している。

闘いは続く

大陪審の決定が近づいた11月17日、ミズーリ州のニクソン知事は、緊急事態宣言を発令し、州兵を出動準備体制に置いた。不満を発散させたい人が地元以外からも大量にやってくるとふんでの、暴動を恐れた措置だった。だが、この時、当局以上に流血沙汰を恐れたのは、アクティビストたちの側だった。

自分たちは、暴力行為をふるうつもりはない。だが、警察が戦闘用武器を遠慮会釈なく向けてきたら?アクティビストのトリー・ラッセルは、CNNの記者にこう語った。「落ち着け、頭を冷やせって、警官にも言いたい。ペパースプレーや催涙ガスやゴム弾を浴びせないでくれ。キッズを傷つけるのは、やめてくれ。僕らのコミュニティにトラウマを起こすのはもうよしにしてほしい。殺傷力をもつ武器を使うと脅かしているのは、警察とFBIとKKKじゃないか」。

暴動が起きた夜、デモクラシー・ナウ!のエイミー・グッドマンはファーガソンに赴き、現地取材を行った。市のビジネス地区は州兵も含め、過剰なまでの警備で守られていたが、貧困地区はほとんど手放しにされていることに、エイミーは気付いた。まるで「騒ぐならこの地区で気がすむまで」というメッセージのように思われたとエイミーは回想している。

アクティビストのトリー・ラッセルは、こう語った。「この国ではね、人より財産が大事なのさ。金持ちの地域は、州兵まで動員して警備をがっちりとかためなおした。だけど、黒人地区のウェストフロリッサントにいってごらん。黒人の小さなビジネスがある場所だ。このコミュニティで破壊行為が起きた。地域の人たちの夢が壊された。この人たちの夢は、保護されなかった。州兵たちが守ったのは、白人のコミュニティと彼等の夢だ」。

大陪審の決定前からアクティビストたちはたいした期待もしていなかったし、起訴になろうがなるまいが運動を続けようと決意していた。マサチューセッツ州の牧師でファーガソンのアクティビストたちと行動を共にしてきたオサジフォ・セコウは、ドキュメンタリー『マイク・ブラウンの叛乱』の中で、大陪審の決定を目前にこんな風に語っていた。「60年代には非暴力の運動で憲法のもつ力が拡がった。だが、いまこの瞬間にもキャンドルに灯をともしている人たちがいる。警官の手で殺された家族を弔う人たちだ。民主主義は、彼等を裏切った。キャンドルに灯がともるたびに、民主主義が燃え落ちる。私はアメリカにたいした希望を抱いてはいない。だが、若者たちに対しては大きな希望をもっている。だから、組織化を続け、抵抗を続ける。彼等の存在こそ、失うわけにはいかないチャンスなのだから」。

ファーガソンを超えて

レベル・ディアスはブロンクスを拠点に活躍するヒップホップ・デュオだ。メンバーの2人ともチリのアクティビストを親にもつ。音楽やアートを通してコミュニティ・アクティビズムの育成をめざす彼等は、奇しくも、ファーガソンの事件発生の2~3ヵ月前からteleSURというテレビ局で定期番組“Ñ Don’t Stop” をもつようになった。teleSUR(テレスール)は中南米を対象としたテレビ局で本社は、ベネズエラのカラカスにある。ウゴ・チャベスが、CNNなどの国際テレビネットワークに対抗して設立したテレビ局で、アルジャジーラを手本にし、南米諸国の統合も意図している。

マイケル・ブラウン射殺事件を知ると、レベル・ディアスは車で17時間かけてファーガソンに駆けつけて取材を始めた。6篇からなるドキュメンタリー『マイケル・ブラウンの叛乱』はYoutubeで公開されており、誰にでも簡単にアクセスできる、ファーガソンの貴重な映像記録だ。

1月7日、極寒のハーレムで行われた上映会で、レベル・ディアスは次のように語った。「これは新しい運動だ。誰も気付かないうちにゲットー(hood)で新しい空気が生まれ、人々をつなげていた。アンジェラ・デイビスを知らなくても、2パックには皆が一目おいている。そんな世代の連中だ。この先、どうなるのかはわからない。だけど、サパティスタだって皆の前に姿を現すまでに、オーガナイズに十数年をかけたんだ」。

レベル・ディアスはまた、ファーガソンのアクティビストとパレスチナのアクティビストとの交流も披露した。「パレスチナの人たちは、催涙ガスから身を守るこつを伝授してくれたよ」と。テフ・ポーは、1月に、パレスチナを訪れた。トレイボン・マーティン事件を機にフロリダを本拠地にして作られたアクティビスト組織「ドリーム・ディフェンダーズ」が企画したアクティビストたちのパレスチナツアーにファーガソンを代表して参加したのだ。

ファーガソンが火をつけた‶Black Lives Matter″の運動は、ファーガンを超え、ニューヨークやオークランドなど、全米各地に飛び火し、さらにグローバルな運動にも手をさしのべ、またそこから学んでいる。反レイシズムを主眼とする運動だが、レイシズムを政治・経済的に捉え、アクティビズム全般に熱気を与えている。

ストリートから生まれた果敢で辛抱強い直接行動を軸に、ファーガソンのアクティビストたちは、民主主義の希望のキャンドルにもうひとつ灯をともしたのだ。

(取材/文=大竹秀子)

In Memory of Ronald "Tony" Green

参考資料

DNJ字幕付動画

  • 警官か兵士か?ファーガソンで市民の抗議に地元警察は戦争なみの軍備で対応 (2014.8.15)
  • 暴動は声を聞いてもらえない人々の言葉:人種間正義を求める闘いで続くファーガソンの抗議行動 (準備中)

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外部リンク(英語)

 

 

 

 

 

 

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