東ティモールの虐殺

2008/1/28(Mon)
Video No.: 
2
17分

1991年秋。インドネシア占領下に置かれていた東ティモールの首都、ディリは緊張につつまれていた。

11月に予定されていた(旧)宗主国ポルトガルの議員団の訪問取りやめが10月26日に発表された。その2日後、議員団にインドネシア不法占領下の恐怖生活を訴えようと準備していた若者の一人、セバスチャン・ゴメスが、インドネシアの秘密警察に射殺された。11月12日、モタエル教会で行われたゴメス追悼ミサには数千人が参加した。人々はミサのあと、サンタクルス墓地に行進し、そこで解放を求める横断幕を掲げ、独立をアピールした。インドネシア軍が墓地を取り囲み、武器を持たない人々に向けて無差別発砲を開始した。発砲により、270人以上の人々が殺された。インドネシア軍はさらに、怪我人をトラックで病院に運び毒殺した。このとき、ポルトガル議員団の訪問予定にあわせて、ディリには外国のジャーナリストたちがいた。デモクラシー・ナウ!のエイミー・グッドマン、このセグメントに登場するアラン・ネアンと英国のマックス・スタールもやはりディリにいた。何人かのジャーナリストと人権活動家の協力により、虐殺の光景を納めたビデオが国外に持ち出され、西側のテレビで放映された。それにより、サンタクルス虐殺は世界に知られることとなった。

1990年代、スピーキング・ツーアで日本を訪れた東ティモール人のベラ・ガリョスさんは、次のように語っている。「サンタクルス虐殺は世界中に知られるようになりました。けれども、この虐殺は東ティモールでは、特別な出来事ではないのです。インドネシア軍は何度も同様の虐殺を繰り替えしてきました。ただ、それらはどこにも伝えられてこなかっただけなのです」

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1975年12月7日、スハルトは東ティモールに全面侵攻した。米国のフォード大統領とキッシンジャー国務長官がジャカルタを訪問した翌日のことだった。東ティモールは無線でオーストラリアに助けを求めたが無視された。また、当時東ティモールにいたオーストラリアのテレビ・クルーも状況をオーストラリアに訴えたが、黙殺され、侵攻してきたインドネシア軍により殺された。その後、1991年のサンタクルス虐殺が世界に報じられるまで、インドネシア軍が東ティモールで犯してきた虐殺(1981年9月のラクルタ虐殺、1983年8月のクララス虐殺など)も、飢餓作戦も、発がん性の高い強制避妊薬を少女たちに注射することによる民族抹殺政策も、西側メディアで報じられることはなかったし、米国がインドネシアにブロンコOV戦闘爆撃機を提供し続けたことも、英国がホーク戦闘機を売ったことも、オーストラリアがインドネシアと共同で東ティモールの油田を盗掘し始めたことも、西側メディアで報じられることはなかった。

サンタクルス虐殺後もインドネシアによる不法占領は続いた。東ティモールの住民投票が行われ、主権回復に向けて歩み出した1999年までに、虐殺や飢餓などで命を失った東ティモール人は20万人にのぼる。

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このセグメントでは、サンタクルス虐殺事件のとき現場にいたエイミー・グッドマンとアラン・ネアン(ちなみにネアンはインドネシア軍の暴力からグッドマンを庇って、インドネシア軍兵士が持つ米国製の銃で頭を殴られ、負傷した)が製作した東ティモールのドキュメンタリー「大虐殺:東ティモールの物語」を紹介しつつ、やはり現場にいたマックス・スタールとともに、東ティモールで犯された虐殺、そして米国やオーストラリアの、インドネシアとの共謀関係を振り返る。

文:益岡賢(東京東チモール協会、チモール・ロロサエ情報ページを共同で運営)

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Credits: 

字幕翻訳 斉木裕明 / 全体監修 中野真紀子