エジプト

コロンビア大学で中東現代史を教えるラシード・ハーリーディ教授が、エジプトとチュニジアの民衆蜂起が中東全体に与える影響について語ります。ハーリーディは2010年秋、米コロンビア大学が毎年開催しているエドワード・サイード記念レクチャー・シリーズで行なった講演で、「米国の中東政策を決定する政治プロセスがもたらす結果についての短期的な見通しは深い悲観論であり、パレスチナ・イスラエルの状況についても同様だ」と述べました。その数カ月後、エジプト蜂起がそれを変えることとなりました。アラブ諸国の中心的存在エジプトの既存体制が揺らぎ始めたからです。(13分)
 英国を拠点とするボーダフォンは、エジプト政府の命令に従い、エジプトの電話とインターネットのサービスを遮断しました。ボーイング社傘下の米国企業ナルス社は、反体制活動家の身元の割り出しを助ける監視技術をエジプトに売りました。フリー・プレスのティム・カーとニューヨーク市立大学教授C.W.アンダーソンに話を聞きます。カーは、エジプトで通信がどのように遮断されたかを説明し、“国家的脅威”の場合に米国で通信を遮断する根拠となりうる、上院に提出された法案「国家資産としてのサイバースペース防衛法」について論じます。アンダーソンは、2004年の共和党大会と民主党大会での抗議行動を起源とするツイッターの活動家的ルーツをたどります。(8分)
バーレーン、リビア、イエメン、イランなど、中東から北アフリカにかけて大規模な民衆デモの波が広がっています。「アラブの春」とも呼ばれる現在の状況について、アルジャジーラ英語放送のマルワン・ビシャーラ氏とノーム・チョムスキー氏に聞きます。この動きは昨日今日にはじまったものではありません。アラブ世界では独裁体制に対する不満が長年鬱積しており、これまでは弾圧によって抗議運動を押さえつけてきました。それが押さえつけても止まらない勢いになったのは、2010年11月の西サハラの独立運動です。モロッコの占領支配に反対する抗議キャンプをモロッコ軍が武力鎮圧し、多くの死傷者が出ましたが抗議の動きは広まりました。でも米国のメディアには、まるでアラブの民衆が忽然と姿を現したように映るのです。こと中東に関しては、何ごともイスラエルの色つきめがねを通してしか見ることのできない米国の政府やメディアには、石油や独裁者やテロリストしか見えなくなっているからです。(18分)
2011年1月25日からエジプトで続いた民主化デモの正念場の1つに、2月2日、タハリール広場で繰り広げられた大統領支持派と市民の攻防戦があります。一夜明けたタハリール広場で、シャリフ・アブドゥル・クドゥースが市民にインタビューしました。市民が一様に口にしたのは、ムバラク派の暴徒が馬やラクダで突っ込み、銃、火炎ビン、ナイフやパイプなどの武器を使って襲ってきたことでした。橋の上など高所からの狙い撃ちもありました。
長年女性の権利を訴えてきたナワル・エル・サーダウィがムバラク政権崩壊を熱く語ります。サーダウィは1931年、エジプトの小さな農村で生まれました。カイロ大学医学部を卒業、故郷の村で医者として働いた後、エジプト保健省に勤務。女性の権利を訴え体制批判を続けたため、保健省を解雇され、サダト政権下では政治犯として1981年に3カ月間投獄されました。発行していた雑誌や著作が発禁処分になるなどさまざまな抑圧を受けながらも生涯、フェミニスト、人権活動家として第一線にいます。
ムバラク大統領辞任後、エジプトは軍部の暫定統治に入りました。エジプト軍は国民の要求に応える形で憲法の停止、議会の解散などを国営テレビで発表しました。ムバラク後の民主化運動をどう進めるべきなのか、デモ参加者の間でも意見が分かれています。 デモクラシー・ナウ!やアルジャジーラが放送しつづけたタハリール広場の人々は、独裁下でこれまでなかなか顔の見えてこなかった一般市民です。米国に支援されたアラブ諸国の独裁体制が崩れれば、中東和平にも大きく影響するでしょう。一般民衆の力でムバラク政権は崩壊しましたが、憲法がどう改正されるのか、民主的な選挙が行なわれるのか、軍部から国民へ本当に権力が移るのかが注目されます。
デモクラシー・ナウ!の特派員アンジャリ・カマトが、ムバラク大統領辞任のニュースを聞いた後のエジプト・タハリール広場の人々にインタビューしました。市民たちの喜びが生き生きと伝わってきます。ムバラク大統領は辞任したものの、民政移行にはまだ多くの課題が残っています。デモ参加者たちは、30年間続いている非常事態法の解除や憲法改正あるいは新憲法の制定も求めています。軍最高評議会が暫定統治するなか、エジプト国民の要求はどこまで実現するでしょうか。
デモクラシー・ナウ!のシニアプロデューサー、カイロ出身のシャリフ・アブドゥル・クドゥースのエジプト報告第一弾です。ある市民は、治安部隊を撃退した様子をこう語りました。「催涙ガスにやられた市民が出ると、他の市民がすぐ来て警察を食い止めた。その彼らがやられると、そのまた次が後をひきうけた。市民はお互いから勇気をもらっていた」。この勝利で得た自信が、とどまることを知らない市民の抵抗のうねりを作ったようです。
エジプト蜂起は突然始まったのではなく、数十年に渡るエジプト国民の社会運動が底流にあったとモナ・エルゴバシーは言います。「抗議デモは少なくとも2000年には激化しはじめており、ピークはむしろ2006年から2007年にかけてだった。こうした運動で培った人々のノウハウが1月25日のエジプト蜂起につながったのです」(3分)
26歳のエジプト人活動家、アスマ・マフフーズは2011年1月18日、1月25日にタハリール広場に集まって、ホスニ・ムバラクの“腐敗した政府”に抗議するよう人々に求めるビデオをインターネット上に投稿しました。彼女の感動的な呼びかけは、最終的にエジプトの蜂起を奮い立たせることになりました。