『ハンナ・アーレント』 アイヒマン裁判を取材したドイツ系ユダヤ人思想家

2013/11/26(Tue)
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マルガレーテ・フォン・トロッタは戦後のドイツ映画界を代表する監督のひとりです。写実に徹した生硬な作品を撮り続け、困難に屈しない強烈な自我を持った女性の造形では特に定評があります。2012年、6年ぶりに発表された劇場映画新作は『ハンナ・アーレント』。

マルティン・ハイデッガーに師事したユダヤ系ドイツ人の哲学者で、亡命先のニューヨークに住んでいたハンナ・アーレントは、1961年のアイヒマン裁判の傍聴報告記事によって、米国の特にユダヤ系知識人から猛烈な反発を買いました。ゲシュタポのユダヤ人課課長として、ナチス占領下の東欧全域で数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に移送する指揮を執ったアドルフ・アイヒマンは、いわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」の立案にも関与したとされていますが、潜伏先のアルゼンチンからモサド(イスラエル情報特務庁)によって拉致され、エルサレムで裁きにかけられました。

ニューヨーカー誌に裁判の傍聴報告を書くことを志願したアーレントは、現地で目にしたアイヒマンが、想像していた邪悪な殺人鬼というよりは、善悪の別に全く無関心で権威に盲従して命令を執行するだけの小役人なのではないかと感じて衝撃を受けます。アイヒマンを単なる類型として「悪の凡庸さ」と名付けたアーレントの報告は、アイヒマンを免罪するものと解釈されて集中砲火を浴びます。さらにアーレントは、「欧州各地のユダヤ人評議会指導部がナチスに妥協的でしばしば取引を行ったためにホロコーストの被害が拡大した」という法廷証言を報じたために、ユダヤ民族の裏切り者の汚名を着せられて憎悪と脅迫の対象となりますが、圧力に屈せず自らの信念を守り抜きました。

番組ではフォン・トロッタ監督と、主演女優のバルバラ・スコヴァにインタビューします。実物を真似た「演技」を排除し、アーレント自身の言葉と思考そのものを伝えることに徹したこの映画には、アイヒマンを演じる俳優が出てきません。アイヒマンが登場する場面は、先行する記録映画『スペシャリスト─自覚なき殺戮者』にも使われた実際の裁判記録映像を編集して構成されています。

映画『ハンナ・アーレント』は2013年10月に日本でも公開され、連日長蛇の列ができる異例のヒットとなりました。アーレントの傍聴報告は邦訳がみすず書房から『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』として出版されています。(斉木裕明)

*マルガレーテ・フォン・トロッタ(Margarethe von Trotta):1942年、ベルリンに生まれる。ライナー=ヴェルナー・ファスビンダーその他の監督作品に女優として出演したのち、1975年に初監督作品『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』(当時の夫であるフォルカー・シュレンドルフとの共同監督)を発表。代表作に『鉛の時代』、『ローザ・ルクセンブルク』、『三人姉妹』がある。

*バルバラ・スコヴァ(Barbara Sukowa):1950年、ブレーメンに生まれる。ライナー=ヴェルナー・ファスビンダー監督の『ベルリン・アレクサンダー広場』と『ローラ』で脚光を浴びる。マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『鉛の時代』と『ローザ・ルクセンブルク』にも主演している。

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字幕翻訳:阿野貴史 校正:斉木裕明