これまでの歩みのハイライト

デモクラシー・ナウ!を率いるエイミー・グッドマンは、ジャーナリストを志して1985年パシフィカラジオのニューヨーク局(WBAI)に採用され、「WBAIイブニング・ニュース」の制作に10年間たずさわりました。

東チモールの独立を見守る

WBAIのジャーナリストとして、エイミーは1990年と91年に東チモールを取材しました。当時はインドネシアがアメリ カの支援のもとに東チモールを占領支配しており、エイミーは同じくジャーナリストのアラン・ネアン(Allan Nairn)と共に、インドネシア軍の発 砲により270人のティモール人が殺害される場面に遭遇しました。

後に「ディリ虐殺」と呼ばれるようになったこの事件の渦中で、エイミーとアラン・ネアンもインドネシア兵に激しく殴打され、ネアンは頭蓋骨に重傷を負いま した。2人の制作したドキュメンタリー "Massacre: The Story of East Timor"(大虐殺 東ティモールの物語)は数々の賞を受賞しましたが、インドネシア軍は2人に対し東ティモールへの入国を禁止し、1994年に再入国 を試みた2人は逮捕されました。

エイミーはデモクラシー・ナウ!が始まってからも関心を注ぎ続け、1999年に国連東ティモール支援団(UNAMET)の監督の下で実施された住民投票の 取材を試みました。このとき東ティモールの人々は圧倒的な賛成多数で独立を決定したのですが、エイミーはインドネシア軍によって強制退去させられました。

2002年、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が去り、東ティモールは正式に独立しました。同年5月に挙行された独立式典に合わせて、グッド マンはデモクラシー・ナウ!のスタッフと共に東ティモールへ舞い戻り建国の過程を取材しました。5日間にわたって放送された特集“From Annihilation to a New Nation”(滅亡から建国へ)は、米国の放送番組では最も詳細に東ティモール独立の過程を報道した番組でした。

ナイジェリアの無法な石油開発

1996年にパシフィカ・ラジオがデモクラシー・ナウ!を開始した当初は、公共放送として唯一の選挙報道番組というのが目玉でしたが、番組が好評だったため大統領選後も継続され、やがてパシフィカの看板番組となりました。

デモクラシー・ナウ!の放送を開始して2年目の1998年、エイミーはプロデューサーのジェレミー・スケイヒル(Jeremy Scahill)と共に、アフリカ最大の人口持つナイジェリアを訪れ、ニジェール川のデルタ地帯における米国系石油企業の活動を取材しました。

  現地では原油流出事故が相次いでおり、地域社会に甚大な被害を及ぼしています。このときの取材をまとめたDrilling and Killing: Chevron and Nigeria's Oil Dictatorship(採 油と殺戮 シェブロンとナイジェリアの石油独裁)は、度重なる流出事故に抗議した村人2人が殺害された事件に関連して、米国系の石油企業シェブロンが果たした役割を 暴露しました。このドキュメンタリーは1998年のジョージ・ポーク賞(ロングアイランド大学が毎年優れた報道活動に授与するジャーナリズム賞)を受賞し ました。

「シアトルの闘い」と反グローバリズム運動の炸裂

カナダのシアトルでWTO(世界貿易機構)の第3回閣僚会議が開催された1999年11月には、デモクラシー・ナウ!は8 日間の大特集を組み、「シアトルの闘い」(Battle of Seattle)を現地から放送しました。企業が推進するグローバル化に反対しシアトルの街頭で抗議行動を行うために世界各地から集まった活動家たちにデ モクラシー・ナウ!が密着取材し、国際的な舞台での反グローバリズム運動の炸裂を伝えました。
以来、ワシントン(2000年4月IMF・世銀の春季会議)、プラハ(200年9月IMF・世銀の年次総会)、ケベック(2001年4月第3回米州自由貿 易地域{FTAA}サミット)、ポルトアレグレ(ブラジル)の「世界社会フォーラム」(2001年1月スイスのダボスで開かれた「世界経済フォーラム」に 対抗して開催)と、つぎつぎと場所を変えて企業によるグローバル化に反対する人々の声を常に現地の路上から直接伝えてきました。
また同じ1999年、エイミーはペルーを訪問し、アメリカ人の政治犯として捕らえられていたロリ・ベレンソン(Lori Berenson)にインタビューしました。彼女と話すために獄中を訪問したジャーナリストは、エイミーが初めてでした。

2000年大統領選挙報道と公共放送のマルチメディア連携

2000年は大統領選挙の年。デモクラシー・ナウ!は大選挙報道を機に非営利コミュニティ・ラジオや衛星・ケーブルTV 局、インターネット放送などと協力して、過去に例のないマルチメディア連携を築き上げ、毎日の放送時間を2時間に延長して、共和党と民主党の全国大会を フィラデルフィアとロサンゼルスの「インディペンデント・メディア・センター」(IMC)から直接放送しました。

大統領選の投票当日には、当時のビル・クリントン(Bill Clinton)大統領が電話をかけてくるというハプニングがありました。エイミーとニューヨークWBAI局のゴンサロ・アブルト(Gonzalo Aburto)が痛烈な質問を投げかけたため、急遽30分間におよぶ議論となりました。インタビューの終わりには大統領はエイミーに対し、「敵対的」で 「闘争的」だと述べ、また「失礼だ」と怒りをあらわにしましたが、 エイミーは「それが(ジャーナリストとしての)自分の仕事だ」と答えました。

ダーバン国連人種差別撤廃会議 9/11 テレビ放送開始

2001 年8月には、シニア・プロデューサーのクリス・エイブラムス(Kris Abrams)が南アフリカのダーバンで開催された「国連人種差別撤廃世界会議」を取材しました。この歴史的サミットに米国の企業メディアはほとんど無視 を決め込みましたが、デモクラシー・ナウ!では1週間にわたる徹底報道を行いました。


しかしシリーズ最終日の放送は突然、中止を余儀なくされました。9月11日、デモクラシー・ナウ!のスタジオの目と鼻の先にあるニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込みました。世界を震撼させた米国同時多発テロが起きたのです。

9月11日の直後から、デモクラシー・ナウ!はウィークデーを除く毎日のラジオとテレビの同時放送を開始しました。ラジオ、衛星放送、ケーブルTV、短波放送そしてインターネットを駆使した公共メディア番組は、デモクラシー・ナウ!だけでした。

米軍がアフガニスタン空爆を開始した際にも番組を2時間に拡大、その後イラク侵攻、占領に際しても、同じように延長放送しました。

「デモクラシー・ナウ!」は2002年6月、独立NPO法人となりました。当時は850局以上のラジオやテレビのチャンネルで放送されていましたが、放送する局の数はその後も増え続けています。