もう1つの9/11:1973年9月11日 米支援のピノチェトがチリの実権を握った日
チリで9.11と言えば、1973年の軍事クーデターを指します。米国の支援を受けたピノチェト将軍が、民主的に選挙で選ばれたアジェンデ政権を倒した日です。それ以降、チリでは独裁政権が反対派の誘拐や虐殺を繰り返して国民を恐怖に陥れ、その一方でシカゴ学派の主張に沿った新自由主義経済政策が徹底的に推進されました。このショックドクトリンの最初の「実験」は、その後、IMFの手動でバブル崩壊後の中南米全体に広がり、大多数の国民を困窮させて、現在の中南米のアメリカ離れの種を撒くことになりました。今ではそれが全世界に拡大していますが、今日の私たちが直面する問題の先駆けとなった事件として、チリ・クーデターの意義は一段と大きくなっています。
この放送では、この40年前のクーデターの生き残りが、この事件を歴史に風化させることなく司法の前に引きずり出そうとしたことに視点を当てます。アジェンデ大統領の側近だったフアン・ガルセスは故郷のスペインにもどり、20年後にピノチェト将軍を人道に対する罪でスペインの裁判所に提訴しました。スペイン当局は、医療措置のために英国に滞在していたピノチェトの身柄引き渡しを英国政府に要求し、その後一年近くもピノチェトの送還をめぐって外交的な綱引きがありました。
ガルセスの訴えを取り上げたのが有名なスペインの判事バルタサール・ガルソンです。人道に対する犯罪を犯しても、米国政府がバックについていれば犯罪人が大手をふるって歩き回る状況に待ったをかけ、国際的に大喝采を浴びました。しかし、国内には敵も多く、特にスペインのフランコ独裁時代に2万人もの市民が行方不明になったという、タブー視されていた国家による犯罪の問題を取り上げたために大きな反発を受け、スペインで判事の資格を停止されていまいました。現在はジュリアン・
アサンジの弁護団の中心人物として大活躍していますが、一貫しているのは国家によるテロを許さないという姿勢です。放置すれば、また同じことが繰り返されるからです。
これは今の日本でもとても大事なことです。国家による司法の捻じ曲げや弾圧をうやむやにしておいては、後日の暴走を許し、さらに大きな犯罪や民主主義そのものを脅かす事態になりかねません。1970年代前半のチリはスペイン語圏の中では最も民主的な国であり、クーデターは予想もしない事件だったとガルセスは証言しています、「裁判所というものは、ときに法律の適用をしぶることがある。民主主義とは毎日の闘いです。闘わなければ法律は紙切れだ」というのは、なかなか重い言葉に響きます。
さて、チリのクーデターと言えば、歌手のビクトル・ハラが虐殺されたこともよく知られています。日本の検察の暴走をめぐってジャンヌ・ダルクのような活躍をしているラテン歌手の八木啓代さんが、このほど『禁じられた歌 ビクトルハラはなぜ死んだか』という作家デビューの本をアマゾンのKindle版で再刊されました。http://ow.ly/hHPkq 現在の日本と1973年のチリをつなぐものを明らかにした、おすすめの本です。デモクラシー・ナウ!の「かわら版6号」のコラムにも、八木さんの活動の原点ともいえるこの本に対する思いを寄稿していただきました。(中野真紀子)
*フアン・ガルセス(Juan Garcés)
スペイン生まれの弁護士。マドリッドとソルボンヌでそれぞれ政治学の博士号を取得し、1970年に就任したチリのアジェンデ大統領に顧問として招かれた。クーデター後フランスでアジェンデ政権転覆について本を書き、フランコ没後スペインに戻り、弁護士活動を始めた。1985年スペインで、ジェノサイドや拷問など人道に反する罪については、国籍や犯罪現場にかかわらずスペインの裁判所が捜査および刑事訴追の管轄権を有するとする法律ができたため、これに基づきピノチェト将軍らチリのクーデター指導者たち1996年に提訴した。
字幕翻訳:斉木裕明/ 校正:中野真紀子/ Web掲載:付天斉