50年後のフリーダム・サマー:ミシシッピ便り
50年後のフリーダム・サマー:ミシシッピ便り
フリーダム・サマーから50年。ミシシッピ州に行ってきました。名だたる奴隷制と根強い人種差別でアメリカの南部諸州の中でもとりわけおどろおどろしいイメージをふりまいてきた州です。面積は北海道と四国を合わせた広さ。人口は300万人弱。最大の都市である州都ジャクソンですら、人口は17万という少なさです。州の半数を超える人々が農村(rural)地帯にばらばらと住み、かといって農業でもうけているというわけでもなく、州の平均家計収入は約3万6000ドル、全米50州の最下位にとどまっています。
コンラッドの『闇の奥』、中上健次の熊野、フォークナーの『八月の光』―歩いてみたミシシッピからは、そんな連想が浮かびました。強烈な陽射し、繁茂する緑、どう猛な豪雨、氾濫する土色の川と沼地。花が咲き乱れ、カエルや鳥が大合唱するそれは美しい自然。けれども、底なしの恵みと共にやわな人間などいともたやすくおしつぶしせる自然は、どこか悪意すら感じさせるのです。聖地を欠いた危険な豊穣。だからこそ、土地に縛り付けられた人たちはブルースを生み、50年前の夏、ミシシッピ州各地の地域社会にはいりこんで公民権運動を展開した若者たちは土地の人たちと共にフリーダム・ソングを歌って人智を超えた力で荒ぶる地霊を鎮め、加護を求めたのではないか、なーんて勝手な思いをはせました。
というわけで今回のまたしても長ーいブログは「ミシシッピ・フリーダムサマー50周年」イベント会場で録音したIn the Mississippi Riverでスタートです(下のMP3をクリック)。
歌っているのは、フリーダム・シンガーズ。梶井基次郎に「桜の樹の下には」という小篇がありますが、In the Mississippi Riverは、ミシシッピ川の川底をあさるとね、埋もれた残虐の跡が浮かび上がってくるんだよ、という実にこわーい内容の歌です。(そして2曲目は、Keep Your Eyes on the Prize。これまたフリーダム・ソングの代表作です)
1964年フリーダム・サマー
南北戦争間近の1860年、ミシシッピ州では人口の過半数(55%)を黒人奴隷が占めていました。強制的なただ働きに支えられていた大規模綿花プランテーション・ビジネスは、奴隷解放と共にがたがたに崩れ、ミシシッピは貧困州へと転落していきます。解放された奴隷も、土地や賠償金をもらえたわけではありません。道具も土地も種子ももたない多くの元奴隷たちは、その後も地主の土地を耕作し、家族がどうにか生き延びられる農作物を手にするのがやっとでした。奴隷の方がまだましとさえ言われるほどの悪条件で小作農となり、搾取され続けたのです。
そんなミシシッピ州に公民権運動の強風を吹き込んだのが1964年のフリーダム・サマーでした。当時、ミシシッピ州の黒人人口は全州民の45%を占めていましたが、人種差別的な州法や暴力的な妨害工作により、投票者登録を行い投票権を認められていたのは、投票可能なはずの黒人の5~6%にすぎませんでした。ジョン・F・ケネディ大統領が1963年に提唱した公民権法は、ケネディ暗殺後、ジョンソン大統領に受け継がれ、公民権法は1964年7月はじめに成立することになります。でも、公民権法は投票に関する人種差別を撤廃する条項を欠いた、妥協の産物でもあり、投票における人種差別の撤廃に向けて、市民の側からもう一押しが必要でした。公民権運動を担っていた4つの主要団体が連合し、その中でも大学生の団体SNCC(スニック=学生非暴力調整委員会)が中心となり、ミシシッピ州各地の黒人コミュニティに入り込んで共に暮らし、投票権登録を支援・推進しようというのがフリーダム・サマーの計画でした。
フリーダム・サマーはのっけから悲劇にみまわれます。ニューヨークからやって来た白人アクティビスト2人と地元の黒人アクティビスト1人が、失踪したのです。殺害の疑いが濃厚でした。警察も裁判所も地元報道機関もすべてが人種差別主義者と緊密につながった地で、頼りになるのは連邦政府機関だけでした。介入をしぶるFBIをロバート・ケネディ司法長官が叱咤激励して捜査し、1ヵ月以上も立ってからようやく3人の遺骸が発見されたのです。
南部で黒人が人種差別主義者に殺されることは、珍しくもないことでした。この捜索で川底や沼地をさらったらほかにも遺体が9体出てきたと言われています。白人の若者が犠牲にならなければ、フリーダム・サマーが全国的な注目を集めることはなかったでしょう。10週間にわたるフリーダム・サマー・プログラム実施中に、公民権運動を支援した地元の黒人が少なくとも3人殺され、37の教会が焼き討ちに遭い、黒人の住居や店など30軒が爆弾を投げ込まれたり焼き討ちにあいました。
ミシシッピの人種差別者たちが、白人のアクティビストまで容赦なく殺すという事実は、プロジェクトへの参加を考えていた多くの学生にとってショッキングでした。それでも700人あまりの学生ボランティアがプロジェクトにミシシッピにやってきました。オハイオ州の大学で開かれた出発前の研修で、参加者たちは、逮捕された時のために保釈金150ドル、不測の事態が起きた時のためのID写真と近親者の連絡先を準備するよう、義務づけられたそうです。
フリーダム・スクール
フリーダム・サマーのプログラムには、各地に運動の拠点となるフリーダム・ハウスやコミュニティ・センター、そしてフリーダム・スクールを開くことが含まれていました。中でも、教育はプログラムの重要な核でした。完全な人種隔離が行われ、黒人のための公立校にはろくな予算もおりなかったこともあり、黒人の教育水準が極めて低かったためです。投票登録をするには字が読める必要もありました。フリーダム・スクールでは、おとなも含めて3500人以上が学び、簡単な読み書きや計算、ブラックヒストリー、公民権運動、政治のプロセスなどがカリキュラムになりました。
夏休みが終われば帰ってく学生ボランティアに対し、地元のアクティビストや協力者たちには逃げ場がありません。ボランティアを受け入れ、武装してまもった地元の人たちの勇気は絶大です。地元紙はまるでいやがらせのように有権者登録に成功した人たちの名前を紙面に掲載し、人種差別者たちの攻撃の的にしやすくしました。役場に投票登録申請に行くことだけでも、人目に立ち、勇気のいることでした。役場の係員も大概が敵対的です。「石鹸1個には、泡がいくつ含まれてますか?」などという珍問が並ぶ登録資格テストを受けさせられたり、書類上の細かい不備をとがめられ、有権者登録を実現できた住民は、ほんのひと握りにとどまりました。それでも、1965年にジョンソン大統領が反対する南部諸州を寄り切って投票権法を成立させることができたのは、このような市民運動があってこそなのは間違いありません。
まだまだ前進
フリーダム・サマー50周年を記録して、今年の春から6月末まで、ミシシッピ州各地ではご本家・元祖の名を競い合うかのようにさまざまな記念イベントが繰り広げられました。中で最大規模だったのが、ジャクソン郊外にあるトゥーガルー・カレッジで開かれた「フリーダム・サマー50」でした。
美しいキャンパスをもつこのキリスト教系の私立校は、19世紀半ばに解放された元奴隷たちに学びの場を提供するべく設立され、公民権運動でも活動の拠点になった歴史的な場所です。6月25日から29日まで開かれたこのイベントには、50年前にフリーダム・サマーに参加した有名・無名の100人近いアクティビストをはじめ、1000人を優に超す人々が集まりました。
イベントに参加して印象的だったのは、最年少でも60代半ば、最年長組は80歳に手が届かんとする当時のアクティビストたちが、いまだに意気軒昂、その多くがコミュニティに根ざし現役でアクティビズムを続けていることでした。もちろん、記憶は大切です。でも、過去の記憶はアクティビスト・フォトグラファー5人による大規模なドキュメンタリー写真展This Light of Ours(ジャクソン・ミュージアムで開催)やスタンリー・ネルソンの新作ドキュメンタリーFreedom Summer(『フリーダム・サマー』)の上映、フリーダム・シンガーズの演奏、ランチ・テントでの旧交の温めあいやネットワーキングに絞り込み、あとは毎日、いまとこれからに向けたいくつものワークショップにいそいそと、あるいはよぼよぼと出かけていくのです。しかもワークショップの各セッションには、ベテランと若手アクティビストを組み合わせ、互いに学び、刺激し、鍛えあうように工夫されていました。
再び脅かされる投票権
フリーダム・サマー50周年が、回顧で終われないことの背景には、現在、公民権運動が獲得した政治的成果を否定する揺り戻しが起きているという苦い現状も背景にあります。2010年以来、茶会派が勢いをもつ共和党と民主党との激しいつば競り合いの中で、経済的・社会的に弱い立場にあり民主党に投票しそうな投票者の権利を奪おうとする厳しい「投票者ID法」が共和党保守派が強い州で成立しており(州法により投票に際し連邦政府や州政府が発行した写真入りIDの提示を義務づけていますが、高齢者や低所得者などを中心に、そのようなIDをもたない人が大勢いるのです)ミシシッピ州もそのひとつです。1960年代なら、公民権にからむ州の憲法違反を連邦最高裁がお目付役として見張ったものです。ところが保守派判事が過半数を占める現在の最高裁では、どこかの国の誰かのように憲法を「積極的に」解釈し、1965年に達成された投票権法のせっかくの成果を2013年には憲法違反として葬りさってしまいました。
ミシシッピ州の中でも黒人人口が8割近くを占めるジャクソンでは2013年では、初の黒人市長としてチョクウェ・ルムンバが当選し、「アメリカ一革命的な市長の誕生」として明るい話題を呼びました。はじめは疑惑の目で見ていた白人ビジネス層も、健全な経済発展への手を打つ現実路線に満足し、これまで政治に声がとどかなかった層も直接民主主義的な市民集会の開催に強い希望を抱きました。ところが、ルムンバ市長は、就任後8ヵ月で急逝してしまい、市民をがっかりさせました。それはともかく、自治体のレベルでは黒人の政治的力がずいぶん強まったミシシッピ州ですが、知事や州レベルでは保守層がしっかり勢力を握っているのが現状です。
ところで、投票権の制限に関していえば、今回の会議で何度も話題になったもうひとつの大きな問題があります。服役中の人や重罪で服役した過去をもつ人から、時には生涯、選挙権を剥奪するさまざまな州法です。法学者ミシェル・アレグザンダーは大きな話題を呼んだ著書The New Jim Crow: Mass Incarceration in the Age of Colorblindness(『新たな黒人隔離:カラーブラインド時代の大量投獄』)で、現代のアメリカでは刑事司法制度が過去の人種差別を受け継ぐ制度になっていると批判しましたが、世界最大数の受刑者を抱える国となったアメリカでは、投票という国民の基本的な権利がいとも簡単に奪い去られているのです。
エリック・ホルダー現司法長官はこの春、ある会合で、推定580万人ものアメリカ国民がこのような州法により投票権を奪われている現状を問題視し、次のように述べました。「アメリカ全土で220万人の黒人市民、つまりアフリカ系アメリカ人成人のうち13人に1人がこのような法律により、投票から閉め出されています。フロリダ、ケンタッキー、バージニアの3州にいたっては、その比率は5人に1人に達しています」。
世代を超えて
「フリーダム・サマー50」では、おとなたちのセクションとは別に12歳から35歳を対象としたユース・コングレスも平行して開かれました。「投票権」「教育」「健康」「労働者の権利」というおとな組のセクション分けに加えて、ユース組ではゲイ・ライツやソーシャル・メディア、マイノリティの若者の大量投獄、LGBTQ、移民の権利にも焦点が置かれたようです。参加者各自の興味と資質に応じてコミュニティをまとめるスキルを磨くコースと、未来の政治家をめざす人たちのコースに分け、後者にはネットワーキングや資金集めのやり方、キャンペーンに必要な書類の記入方法、政治方針の構築などをじっくり指南したようで、頼もしい限りです。
印象深かったのは、ユース組ではマイノリティ同士でもレースのバリアがかき消され、つながりが横に拡がっているらしいことでした。1964年のフリーダム・サマーでもマイノリティのつながりはあり、たとえば日系人の若者も活動に参加していました。そのうちの一人、タミオ・ワカヤマは、真珠湾攻撃後、カナダで日系移民の両親共々、収容所に入れられた体験の持ち主ですが、SNCCのメンバーとしてカナダからミシシッピにやって来て、アクティビスト・フォトグラファーの一人となり貴重なドキュメント写真を残しました。ミシシッピ・ミュージアムでの写真展でとりあげられた5人の写真家のひとりが彼です。このような例もありましたが、1964年のプロジェクトは黒人と白人のジョイントということが大きな焦点でした。
ところが、2014年のユース組で際だったのが、市民権も正規の滞在資格も持たないラティーノやアジア系の若者アクティビストのパワーでした。幼い頃に親に連れられて米国にやって来てこの国でほかの子たちと同じように育ったのに、法律上、市民として認められません。全米には在留許可をもたないそのような移民が1000万人以上いると推定されています。勇敢な若者たちはそのような移民の人権を身をもって主張するため、国外追放の危険をおかして名乗り出で運動を展開してきました。そのパワーが追い風となり、オバマ政権はようやく2012年に16歳未満で入国し、2012年現在で31歳未満だった若者たちを対象に、彼らの国外強制退去処分を一時的に引き伸ばす暫定措置DACA申請を受け付けるようになりました。ほかにも、あらゆる差別に反対する「ドリーム・ディフェンダーズ」(トレイボン・マーティン射殺事件への憤りをきっかけにフロリダで作られた若者の団体)のメンバーたちも今回の集まりで大きな役割を果たしました。このように、若者たちの集まりで、ブラックはもちろん、ラティーノ、アジア系、そしてもちろんホワイトのアクティビストたちがごく自然に共感し、より良い社会を求めてひとつになっているらしいことは、時代の流れを感じさせます。
いざNISSANへ
「フリーダム・サマー50」のプログラムには、なんと実力行使まで含まれました。日産の自動車製造工場へのラリーです。筋金入りのアクティビストでハリウッド・スターでもあるダニー・グローヴァーもこの日のためにかけつけて、大変なもりあがりでした。ジャクソンから車で40分ほどのキャントンに日産が26億ドルあまりを投じて巨大な工場を建設し、操業を開始したのは2003年のことでした。敷地面積1400エイカー、東京ドームが100個以上はいる広さです。いまでは総計6000人あまりを雇用するありがたい企業で、一般雇いの給料は、現地の平均賃金からみてけっして悪くありません。しかし、問題とされているのは、労組結成を徹底して阻む姿勢です。雇用が正規雇用と臨時雇用の二重構造になっていることも働く人にとっては不安材料です。臨時雇用の給料は正規雇用の半分以下。臨時雇用はいつ首を切られるかわかりませんし、正規雇用もそのうち、臨時雇用にすげ変えられてしまう可能性は否めません。労働者にとっては雇用不安、低賃金労働、福祉の欠如を生みかねないし、消費者にとっては商品の品質への不安を生みかねない、ありがたくない体制なのです。
そんな中、州はもちろん、ビジネスの味方です。日産を招聘するためにミシガン州政府は4億ドル近い支援金を提供しましたし、州と自治体は数億ドルにおよぶ税制上の優遇対策を行っています。ミシシッピ州政府の日本語サイトは、「我が州は『低い賃金』が売り。製造業、おいでやす」と謳っています。また、我が州は「就労権利補償法を州憲法で制定している」、つまりはビジネス・フレンドリーで組合にはつれない州なのだと喧伝しています。工場で働く人たちに「お前らは、黙っとれ」と言わんばかりの姿勢なのです。
ラリーでマイクを手にした日産の従業員は、こう訴えました。「みなさん、ここは、キング師が暗殺された場所、フリーダム・サマーのアクティビスト3人が殺された場所、14歳のエメット・ティル少年が殺された場所のいずれにも近く、ちょうど中心点にあたるグラウンド・ゼロです。それなのに、プランテーションの跡地で、これじゃまるで奴隷制度の二の舞じゃないですか」。日産工場前のハイウェイを歩きながら、ラリー参加者からこんな話も聞きました。「まさにこの道なのよ。50年前、私はキング牧師とマーロン・ブランドと一緒にジャクソンまで、投票を怖れるな、と叫びながら、行進をしたの」。
最終的に組合を作りたいのか、参加したいのかは、働く人たちが十分考えて自主的に決めれば良いことです。けれど、組合を作ったら会社がつぶれるぞ、工場をメキシコに移すからな、と言わんばかりの恐怖支配を日産は行っていると、組合を求める従業員たちは、訴えています。抗議キャンペーンのタイトルは、「Do Better Nissan」。経営陣と働く人たちが力を合わせてより良い日産作りの道を歩んでほしいという期待がこめられています。
ファニー・ルー・ヘイマーの勇気
1964年のフリーダム・サマーは予期せぬ展開も見せました。ミシシッピ州自由民主党の結成です。ワシントンのケネディとジョンソンの両民主党政権のがんばりにもかかわらず、ミシシッピ州の民主党政治家たちは、人種差別撤廃にまったく熱心ではありませんでした。1964年秋の大統領選挙に向けて民主党全国大会が行われることになっていましたが、ミシシッピ州の民主党代表に黒人はただの一人もはいっていなかったのです。
ファニー・ルー・ヘイマーなどフリーダム・サマーに関わっていた草の根のアクティビストは、ミシシッピ州自由民主党を結成し、民主党全国大会に議席を求めて押しかけることに決めました。公民権をさらに推進させたかったからです。ヘイマーは小作農の家に生まれ差別と貧困を身をもって体験した人物で、その迫力は絶大でした。党幹部はミシシッピ州自由民主党を参加者として認めるかどうか、党大会でヘイマーに発言の機会を与えざるを得ませんでした。
大統領指名をめざしていたジョンソンはびびりました。ヘイマーの演説を聞いたら、世論は公民権の推進を後押しするに決まっており、もしそうなれば、ジョンソンは人種差別主義者である南部の票をすべてあきらめざるをえないことを意味したからです。姑息な手を弄し、ジョンソンはヘイマーの演説時間に合わせてホワイトハウスで緊急記者会見を開きました。ヘイマーの演説がテレビに映らないようにするためです。けれども、この戦術はかえって反発を呼び、録画されていたヘイマーの渾身の演説がオンエアされ、世間の注目を集めました。
党大会は結局、ミシシッピ州自由民主党に党大会で2議席を与えるという案を出し、妥協を取り付けようとしました。ミシシッピ州は60人以上もの白人代表を送っていたのですから、人口比率を考えても名ばかりの懐柔策です。結局、ミシシッピ州自由民主党は妥協を潔しとせず、この案を蹴りましたが、フリーダム・サマーに関わったリベラル派の中には妥協でも進歩だと主張する人もおり、アクティビストの間に亀裂が生まれました。
ちなみに2014年度、ブロードウェイのトニー賞で最優秀演劇賞と最優秀男優賞を受賞した芝居All the Wayはケネディ暗殺後、公民権法制定にいたるまでのジョンソンの政治家としてのかけひきと人間的な葛藤、そしてやはり妥協と理想の推進との間で心引き裂かれたキング師のジレンマとを平行して描いたすばらしい作品です。
後日談
新進気鋭のブラックヒストリー研究者、ペニエル・E・ジョセフが、フリーダム・サマー50周年に際してニューヨーク・タイムズ紙に寄せた記事をNYに戻ってからみつけました。ジョセフは、ブラック・パワーを提唱したストークリー・カーマイケルの伝記Stokely: A Lifeを今年の春、出版して話題を呼んだ学者です。この論考の中でジョセフは、SNCCのアクティビストだった(1966年に代表になります)カーマイケルのフリーダム・サマー体験を採り上げ、民主党全国大会で妥協案を飲むようリベラルな白人たちが強く主張したことが、カーマイケルにすでに感じていた白人と黒人との共闘の限界を確信させたとし、ニューヨーク・タイムズ紙は人種を超えた運動は「同床異夢」に終わったと小見出しをつけました。
それから数日後、フリーダム・サマーのアクティビストでその年、民主党全国大会にも足を運んだ高名なアクティビスト2人、黒人のジュリアン・ボンドと白人のマーシャル・ガンツ(現在はハーバード大学で公共政策を教えています)が連名で送ったジョゼフの論説に反論する投書がニューヨーク・タイムズ紙に載りました。二人は、運動には確かにさまざまな失敗も限界もあったし、そこで何が起きたのか、その意義は何だったかを掘り起こし続ける作業はきわめて重要だとしながらも、民主党全国大会では、妥協すべきだと力説した黒人もいれば、妥協には断固反対だとがんばった白人もいたとし、人種で思想を割り切ろうとする単純化に異議を唱えました。
フリーダム・サマーに、問題や限界がなかったわけはありません。おそらく、だからこそ、その後、マルコムXが残した遺産を合流させた形で、ブラック・パワーやブラック・パンサー党が勢いを得、アメリカの枠を超えアジアやアフリカの反植民地運動との連帯に活路を求めたと見てよいでしょう。フリーダム・サマー50の視野にも、落とし穴はあるかもしれません。コミュニティを軸にした運動は、互いの顔が見える現実感と切実さが強みですが、アメリカがグローバルに行っている政治・経済・軍事的な支配や介入の構造、その背後に鎮座する新自由主義への問いかけやつっこみが、まだまだ足りないという気もしないではありません。
上の世代から勇気とノウハウをしっかり伝授された子供や孫たちの世代が、これから、どうなっていくのか?自分たちでもがき、どんなビジョンで新しい世界を切り開いていくのか。The Times They Are A-Changin' ! 変わって当然、次に来る世代に期待です。(大竹秀子)
デモクラシー・ナウ!ジャパン日本語字幕付き参照動画
- フリーダム・ライダーズ 人種隔離ハスへの抵抗(2010.02.01)
- 新たなジムクロウ 大量投獄に見る隠された人種差別(2010.03.11)
- 新たな黒人隔離:カラーブラインド時代の大量投獄(2012.01.13)
- 黒人の自由を求める運動の肉声を記録したパシフィカアーカイブ(2012.02.29)