ブログ:アンジェラとユリ:パワーって伝染する!

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アンジェラとユリ:パワーって伝染する!

その名を聞くとアクティビストたちの顔が喜びで輝く―長い生涯の最後までユリ・コウチヤマは正義を求めるアクティビストたちに元気を与えてくれる存在でした。ユリ・コウチヤマと言えばハーレムの日系アメリカ人アクティビストでマルコムXが射殺された時、床に倒れた彼の頭を抱き支えた(ライフ誌にその時の写真が掲載されました)人物として有名ですが、アクティビストとしての意義はその歴史的一瞬にとどまりません。6月1日に93歳で他界したユリですが、さすがデモクラシー・ナウ!、エイミー・グッドマンがインタビューし、2008年にオンエアしています。奇しくもマルコムと誕生日が同じというユリ。このインタビューの中ではマルコムをヒーローとあがめる黒人の若者たちの群れに混じりながら、ある一言でマルコムの心をつかんだ出逢いの瞬間が肉声で語られ、なかなかに貴重です。

アンジェラ・デイビスとの対談ドキュメンタリー

  ユリ・コウチヤマの生涯については自伝『ユリ・コチヤマ回顧録:日系アメリカ人女性 人種・差別・連帯を語り継ぐ』(彩流社)が翻訳されていますし、YOUTUBEでさまざまな映像クリップも見られます。中でも映像の記録としてわくわくさせられる作品のひとつが、アンジェラ・デイビスと対談したドキュメンタリー映画 Mountains that take wing: Angela Davis & Yuri Kochiyama (2009年)です。日本語字幕がないのは残念ですが、タイトルは、「羽ばたく(ふたつの)巨峰」というような意味でしょうか。一見異色のとりあわせではありながら関心や活動が重なり互いに尊敬しあうふたりのアクティビストがお互いの話を聞くという興味深い作りになっています。

アンジェラ・デイビスは1960年代末、アクティビストが若くシャープで思想や行動ばかりでなく見た目も最高に美しくクールだった時代に、より良い世界を追い求める人々の心をときめかせた存在でした。ユリ・コウチヤマは、アンジェラから見れば一世代上の、お母さんの世代に属する人でしたが、60年代初めには共にニューヨークで暮らし、共通の知人も多いことから、二人の話ははずみます。

この映画やほかの伝記を読んでいて意外に思えるのは、ユリ・コウチヤマが「生まれついてのアクティビスト」ではまったくなかったという事実です。また、「ハーレムの活動家」として知られているものの、ハーレムに住み始めた時には、すでに40歳を過ぎていたのです。

日系人差別と黒人差別のダブルパンチ体験

1921年、日系二世として西海岸カリフォルニア州サン・ペドロで生まれ、「オール・アメリカン・ガール」として育ち、アメリカの自由と正義を信じこんでいたユリ。そんな彼女に初めて転機が訪れたのは、1941年の真珠湾攻撃直後、父親がスパイの嫌疑で逮捕されその後まもなく病死し、残された家族全員がほかの日系人たちと共にアーカンソー州の収容所に送られた時でした。とはいうものの、収容所に送られた体験は、奇しくも、将来、最愛の夫となるビル・コウチヤマとの出逢いもプレゼントしてくれました。ビルはもともとニューヨークの出身でしたが、たまたま西海岸に滞在していた際に真珠湾攻撃が勃発したため(日系アメリカ人に対する強制退去命令が出されたのはアメリカ本土では西海岸地域に限られていました)収容所送りになりました。

当時、第2次大戦に参戦したアメリカには従軍する兵士が必要で、収容所でも兵役年齢の日系人若者を戦争に送り込もうと募兵活動が盛んでした。国のために血を流すことで、日系であれアメリカ人としての愛国心を証明したいと心から思う若者もいれば、社会の圧力を感じそのような証明をすることで生き延びるしか道はないと思う人もおり、また少数ながら、日系人に対し義から外れた行為を行ったアメリカのために戦場で戦うことはできないと考える若者もおり、日系社会の団結はこの踏み絵の前で千々に乱れました。そんな状況の中でビルは収容所内から従軍を志願したGIでした。そして、ユリがいた収容所近くの駐屯地に派遣されたのです。

しかし、従軍はしたものの軍隊内でも反日感情は強く、日系人の兵士たちはほかの兵士が入れる店で買い物をしたり、娯楽センターに足を踏み入れることができずにいました。それなら私たちで場を作ろうと収容所の日系人たちが日系人兵士も入れるよう作った非営利団体USOの地方支部の店にビルがやって来たのが二人の出逢いでした。かつてジャック・ケルアックの『路上』からインスピレーションを得てアメリカ各地にアジア系アメリカ人を訪ね歩いたドキュメンタリー作品(My America...or Honk if You Love Buddha)でコウチヤマ夫妻を採り上げたことのあるフィルムメイカーのルネ・タジマ・ぺーニャ(Renee Tajima-Pena)がユリの死後、オマージュとしてYOUTUBEの載せたドキュメンタリー小編Yuri & Bill Kochiyama: on the road in Mississippi (ユリ&ビル・コウチヤマ:ミシシッピの旅)は、このカップルのほほえましい側面を見せてくれます。初めての出逢いについて聞かれたビルはすっかり照れて「僕?東海岸からやって来たすかした奴でしたよ」と語るのですが、ユリは「それはもう美形で、すましたところがたまらなく魅力的だったの」と手放しにラブラブです。

欧州に出征したビルの帰りを待ちながらユリはミシシッピ州のUSOのお店で働きますが、この時初めて、アメリカの黒人差別を身をもって体験したと言います。USOのお店に黒人兵士が一人もやって来ないことを初めは不思議に思ったユリですが、やがてその通りには黒人は足を踏み入れることができないとされているのだと知らされます。この話に応えてアンジェラ・デイビスは生まれ育ったアラバマ州バーミンガムでも1本の通りのこっち側とあっち側で白人と黒人の住居がはっきりと隔離され、黒人はあっち側の道を歩くことさえ許されなかったと幼い頃の体験を語ります。ともあれ、ユリは狂気のような戦争の時代に、日系人差別と黒人差別の現実をダブルパンチで思い知ったのです。いずれも「学校では教えられたことのない」歴史であり現実だったと言います。

ハーレムでの子育てがはじまり

戦争が終わり結婚した二人はビルの出身地ニューヨークで暮らすようになり6人の子供にめぐまれました。ユリのアクティビスト魂が行動に移ったのは、1960年にハーレムの公共住宅で暮らすようになってからのことでした。黒人やプエルトリコ系の隣人たちに囲まれ、「ハーレムの親の会議」という組織に加わってマイノリティーへの教育の向上を求める運動をするうちにハーレムという地域に凝集されているアメリカの歪みを放っておけなくなったのです。40歳を過ぎてはいましたが、走り出したらもう停まらなくなったようで、マルコムXと出会ったのも黒人やプエルトリコ系への就職差別に抗議するデモで逮捕され裁判にかけられた時のことでした。

暮らしに即した地域のアクティビストとして出発したユリを大きく変えたのはマルコムXとの出逢いだったと言います。公民権運動がアメリカという国で「市民としての当然の権利を私たちにも与えろ」とマジョリティを占めるアメリカ国民の良心に訴える黒人たちの権利獲得運動だったとすれば、マルコムXが求めていたものは人権を侵害するあらゆる国のあらゆる制度に抗議し、そのような制度を支える社会構造に異を唱える、より革命的な運動でした。虐げられてきた黒人が、実は自分たちはビューティフルなのだという誇りを取り戻し自己変革をおこない、植民地化され世界中にばらまかれたアフリカ系住民の解放と連帯を求め、最後には人種を越えアジアもアフリカも含めて第三世界の人たちの国際的な共闘による革命を目指す―マルコムXのそんな思想の最後の転換期にユリは、マルコムに出会ったのでした。マルコムXにとって1964年のメッカ巡礼はそのような思想の軌跡を導いた“目から鱗”の体験だったといわれていますが、コウチヤマ夫妻はマルコムがメッカ巡礼に加えてアフリカ諸国を歴訪した旅先から送った絵はがきを9通受け取っています。

マルコムXの暗殺を報じたLife誌の写真

アンジェラ・デイビスは対談ドキュメンタリーの中で、スパイク・リーが監督した伝記映画『マルコムX』(1992年)の暗殺の場面でユリの姿が省略されているのは、「とっても残念だ」と言います。この映画では、倒れたマルコムの頭を支えるのは妻のベティになっているからです。ユリも、自分のことはともあれ、スパイク・リーの映画には脱けていることがどっさりあると指摘します。二人が残念がるのは、単にユリが登場しないということだけではありません。マルコムがもっていたアジアへの目、ベトナム人民や被爆者など、アフリカや黒人を超えた人々への共感と連帯の思いを、ブラック・ナショナリズムにとどまるスパイク・リーがすくいあげられなかったことへのもどかしさなのです。

ユリのハーレムでの活動も黒人差別問題にとどまりませんでした。1977年にはプエルトリコの独立運動に連帯し、プエルトリコ系差別に反対するグループに加わって自由の女神を8時間にわたって占拠して逮捕されました。また80年代には、日系人強制収容に対する補償要求運動で夫のビルと共に活躍したほか、警察官を殺害したとして死刑判決を受けていた政治運動家でジャーナリストのムミア・アブ=ジャマールの解放を求める運動にも力を注ぎ続けました(デモクラシー・ナウ!のインタビューにも、「フリー、ムミア!」のTシャツを着て登場しています)。

“おとなになったら、ユリ・コウチヤマみたいになりたい”

ハーレムを愛したユリですが、夫ビルが亡くなり、健康状態が心配されるようになったため、娘さん家族が住む西海岸に1999年に移ります。きっと後ろ髪を引かれる思いだったでしょうが、東海岸とは比べものにならないくらい大きく勢いのあるアジア系コミュニティに入ることでその影響力は一部の日系人やハーレム社会を超えて拡がりました。自伝のほか、しっかりとした検証に基づく伝記(”Yuri Kochiyama: Heartbeat of Struggle”。著者のDiane C. Fujinoは日系人ブラックパンサー、リチャード・アオキの伝記作家でもあり、デモクラシー・ナウ!にもゲスト出演したことがあります。)も出版されましたし、積極的な活動を行う若い世代のアジア系アクティビスト(中国系、日系、韓国系、フィリピン系、ベトナム系などなど)のメンターとなり、その活動が次世代に受け継がれることになりました。たとえば、シアトル在住のヒップホップ・デュオ(フィリピン系とイラン系)「ブルー・スカラーズ」は、2011年にユリへの憧れと尊敬をこめた曲を作り、「おとなになったら、ユリ・コウチヤマみたいになりたい(“When I grow up I want to be just like Yuri Kochiyama.”)」と歌っています。

Blue Scholars

公民権運動をおとなとして担った世代が次々に物故者となっていく中で、その頃、若者だった世代、特にアンジェラ・デイビスは、近頃、ますます元気です。アンジェラが長らく問題とし続けてきた人種差別執行の場としての刑務所の存在、人種差別とクロスしたアメリカの政治犯の問題はようやく注目を浴びるようになってきましたし、パレスチナ人への共感と連帯も特に大学生の間で支持を得ています。

おそらくアクティビストは死ぬまでアクティビスト。次の世代に強力パワーを注ぎながらこの世を去ることができるとは、アクティビスト冥利につきる生涯だったといえるでしょう。「デモクラシー・ナウ!」のインタビューの中で、ユリはこうも語っています。暗殺の日、マルコムの妻、ベティが夫のそばにかけつけた後、自分は控え室に行きマルコムの幼い子供たちにミルクを与えそばについていた、と。ユリ・コウチヤマはアクティビストとして斬新な思想で新しい地平を切り開くタイプの指導者ではなかったけれど、周囲の人になされる不正を敏感に感じ取ったらいつも共にいて果敢に闘ってくれる究極の市民アクティビストだったのです。

対談ドキュメンタリーでアンジェラから、「こんなに長い間、活動を続ける支えになったのは何?」と聞かれ、ユリはこう応えています。「運動の中での支え合い。元気ってすごい伝染力をもっていますから(“People in the movement sustain each other. It’s because their spirit is so contagious.”)」。

元気をありがとう、ユリ。Rest in Power.

(大竹秀子)

字幕付き動画:公民権活動家ユリ・コウチヤマの回想 マルコムXとの友情、日系人収容所の経験